切れぬ糸

10 01, 2011 | Posted in 中編 | Thema 小説・文学 » 自作小説

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 先日予告しましたように、オリジナルのSF百合小説を公開します。当初、短編で一万字と予定していたのですが、その範囲に収めたら、どうしても内容の薄いものとなってしまうため、大幅な増量となります。
 十月一日現在、公開するのは四章あるうちの一章となります。分量はおよそ七千字となっております。恐らく二週間間隔で、更新していけるかと思います。

 SFといっても、ハヤカワ文庫で書いておられる本家のSF作家と比べてしまえば、表現や設定の面で、天と地ほどの差があるものです。ご了承くださいまし。
 ちなみに、最初の引用は、某小説の一文を抜き出したものです。

・2011.10.15 第二章公開
 一万三千字ほどの加筆となります。
 なお、文中のノブリスオブリージュの解釈は、アニメ『東のエデン』を参考にしたものです。

・2011.12.03 第三章(一のみ)公開
 一万字ほどの加筆となります。

・2011.12.17 第三章(二と幕間)公開
 一万三千字ほどの加筆となります。

・2011.12.31 微修正
 embryoとなるところが、embyoとなっていたので、修正しました。
 ご指摘ありがとうございました。

・2011.2.22 第四章(三まで)公開
 一万二千字ほどの加筆となります。

・2011.3.07 第四章(六まで)、終章公開
 一万六千字ほどの加筆となります。

【あらすじ】
 今から遠い未来。人型ロボットが街を歩く時代。
 不治の病が若者の間で広がり、労働力不足の懸念から、生存権保護と銘打った法が定められる。二十代を前に寿命を終えるとわかった者の脳を、ロボットに移植し、人と同じ権利を与えるものだ。
 人が地球から消えようとするなか、年を同じくして生まれた双子がいた。陽子と月子。名前以外は全く同じ彼女らにも、たった一つだけ違いがあった。



【もくじ】
第一章・たったひとつの違い〈幕間
第二章・ふたつの道〈幕間
第三章・あらゆる面で異端〈幕間
第四章・萌芽〈
終章・アオイ
※一のリンクは各表題へと飛びます。



~切れぬ糸~



 生きるものは、
    ただ生きる仕組みが働いている絡繰りにすぎない。
                 ――森博嗣 『ヴォイド・シェイパ』



 たったひとつの違い

     一

 かつての大戦が、遠い歴史の寓話と化そうとする時代に、私は生を受けた。瓜二つの妹とともに。
 太陽のように昼を照らせと、私は陽子と名づけられた。妹は、夜を照らせと月子となった。
 生まれたとき、まるで同じ子供が生まれたのだと、両親は疑ったそうだ。歩けるようになるまでは、よく間違えられたものだ。だけどしばらくすれば、よく見分けられるなと、感心の的となっていた。二人はともに、温かい愛情を一杯に受け、幼少期を過ごした。
 街に出れば、いたるところにロボットが歩いている。ロボットには二種類あって、人の命令を受けて動く者と、生前の脳を人工脳に移植した『依代(よりしろ)』に分けられると、父から教えられた。当時まだ幼かった私は、その違いがよくわからなかった。ロボットにも、人間と同じ容姿のものがある。でも、人間と同じように接していいのは、依代だけ。
 私と月子、幼稚園の友達も、このことには常に疑問を胸にくすぶらせていた。でも、まだ幼いお頭(つむ)では、どうそれを大人に伝えればよいのかわからなかった。
 科学者である父と母は、私たちが大きくなる前に海外へ渡ってしまった。危険な仕事であるからと、私と月子は日本に残ることとなった。そして父方の祖父である栄治のもとに預けられることとなる。小学生に入学した頃のことだった。
 危険であるから……。父と母の表情から、私は何か別の理由があるのではと直感した。それに気づくのはそれから相当後のこととなる。

「ほんに、お前さんたちゃ、瓜二つじゃのう」
 一緒に暮らしはじめ、祖父の口癖はすぐこれになった。おかげで『瓜二つ』が似ているものを表すことと、すっかり覚えてしまった。
「だって私たちふた子だもんね」
「ふた子はうりふたつなんでしょ」
「双子とゆうても、容姿も性格も違う場合もあるらしいぞ」
「そっちはそっち」
「こっちはこっち」
 似たような問答を何度も重ねた。栄治との暮らしは、忘れられないほどに愛おしい時間だった。彼は引っ越してくるすこし前までは、高校の教師をしていて、実に様々なことを教えてくれた。
「今見える星はな、実は何万年も昔のものなんじゃよ」
 二人は途方もない時間を考え、深い溜息をついた。月子は、「どうやって星は生まれるの」と疑問を抱いた。
「私たちが死んじゃうと星になるんだよね。おじいちゃんも、ずっと見守ってくれるんだよね」
 私が言うと、祖父は微笑んで、「いつか知る時がくるかもしれんの。そうじゃ。わしの死ぬ前に教えてくれないかい。これはわしからの宿題じゃ」
 宿題という言葉に「え~」という不平の声が、二つ重なった。でも、星が生まれる理由を知ることが出来たら、そんな未来を考えると、自分が少し偉くなったような気がして、「答えを見つけても、すぐに死んじゃだめだよ」と威勢よく言ったものだった。
 夜空を眺めていると、よく星のことを教えてくれた。星座と神話のお話とか、人が宇宙に旅をする話とか。だから、星が空一面に敷き詰められていた遠い昔を、羨んだりもした。
 祖父と妹と過ごす一日一日は、宝物のように幸せで。しかし、あっという間に過ぎていった。

 私と月子は、何もかもが同じだった。容姿も、性格も、その行動も。両親を除いて、祖父も友達も、みんな数え切れないほどよく二人を見間違えた。ごめんねと謝って、いいよと口をそろえて返すのが、二人の密かな楽しみだった。
 私たちは二人で一人。いつまでもこのまま。二人で、一生を暮らしつづけるんだと信じて疑わなかった。
 トイレに行くとき、一枚の壁で隔てられているだけでも心細かった。自分の身体が二つに分けられた気がしたのだ。
 いつも離れない私たちは、クラスの悪がきたちによくからかわれた。「二人一緒じゃないと生きられないんだ」といわれたときは、二人して「そうだよ」と言い返した。月子が死んだら、私も死ぬ。陽子が死んだら、私も死ぬ。当たり前のことを答えるのに、躊躇は必要なかった。
 無理矢理引き離そうとする奴もいた。私と月子が同時に泣いて、きっと睨むと、その男の子は逃げていった。
 一緒にいてなにが悪いの? 大切な人と離れ離れなんて耐えられない。
 気持ち悪いという人もいた。先生は、一人でも生きられるようにと悟らせようとした。新しい言葉を覚えた喜びからか、レズだレズだと騒ぐ奴もいた。
 辛いこともあったけど、ほとんどの級友は理解をしめしてくれた。それに、なによりも、月子がいつも傍にいてくれるのが心強かった。私たちはいつだって一人のときはない。そんな安心感があった。そしてそれは、何事にも変えがたい幸福でもあった。

 私と月子に違いがあるとすれば、この名前だけ。そう信じていた。だけど、中学に入ったとき、その確信はもろくも崩れ去る。


     二

 姉の陽子と私。違うところといったら名前だけ。中学生になってしばらくが経つまで、ずっとそう信じていた。

 中学校に入ってからは、『ロボット倫理』の授業が始まる。簡単にいえば、ロボットと依代の発展の歴史と、関連する一部の法の説明。加え、社会的問題についての概説が主な内容だった。
 発展の歴史では、父と母のことが紹介された。幼いときに渡航したため、なんの仕事をしているか分からなかった二人は、大いに驚いた。年に一度の帰航もままならぬ多忙の中、数々の論文を書き賞をもらっていたと、先生は明朗な声で語った。クラスの生徒の視線がまぶしいものとなり、自分のことのように誇らしく、またこそばゆくもあった。
 社会的な問題については、主にロボットの悪用や暴走の危険性について教わった。過去には、ロボットに人と同様の権利を与えるとの議論もあった。しかし、そのような理由もあり、さらに依代が登場したことによって、一挙にしぼんでいったのだという。
 依代。
 そのもととなる法が『生存権保護法』だ。端的にいえば、二十歳を前に死んだ者の脳のデータをロボット(後に依代と呼ばれる)に移植し、人間の平均寿命までの動作を認める法である。
 生存権保護と銘打つが、その実は労働力の確保にある。当時、全身の血が凝固してしまう病が、若者の間で急速に広がり、今も猛威を振るっている。完治した例はなく、発症を遅らせる薬があるだけだ。
 国連において、条約の採決もはかられたが、多くの途上国が宗教を盾に阻止した。倫理上の問題が付きまとい、推し進めようとした先進国も一枚岩ではなかった。結局、日本を含む一部の先進国が、独自に法として定めた。
 依代の登場とロボットの高機能化が進み、労働力の減衰には一応の歯止めがかかった。だが、依代に生殖機能を持たせるわけには流石にいかず、やがて深刻な子供不足が、現実として政府の頭を悩ましている。
 クローン人間もやむなしとの論が、国会では大勢を占めていると、ニュースで何度も見た。だが、一線を越えてはならないと、研究者団体からの協力の見通しはたっていない。世論も反対意見が多数を占めていた。専門家は、多様性が乱れれば最後、人類の延命処置にしかならないといった。人口のグラフは、急峻な山を描くように、百億の線を疾うに割っていた。
 先生の伝えたかったのは、依代になったとしても差別はしない。だから病を恐れてはなりませんよ、ということだった。私たちは信じていなかった。依代が人に罵られ、暴力を振るわれるのを見てきたから。大人達が言ってるのは建前だって気づいていた。
 依代は人とは違う。依代は逆らえないように出来ているというのは、既に常識となっていた。だから、依代による犯罪は起こらない。
 依代は延命処理であり、なんら解決策となりえないと、『大人の事情』を知らない子供たちは冷静に判断した。
 二十を前に寿命を終えると、人はそのまま死ぬか、依代になるか一応選ぶことができる。現実は、大人たちの押し付けで否応なく機械の身体を手に入れる例が多いようだった。
 進級する頃には、クラスの三分の一は依代となっていた。

 どうして大人は、依代は人と同じというのに、差別をしているの?
 私と陽子は、ある日祖父の栄治に尋ねた。予期せぬ問いだったのか、栄治は難しい顔をして、少しのあいだ思案した。珍しく煙管を持ち出し、縁側に座ると、紫煙をたなびかせる。
「依代とロボットの違いはわかるかの?」
「依代はみんな人と同じ姿をしてるよね。それに、人と同じように感情を持ってるよ」
「人の命令で動くわけじゃなくて、自律して動くよね。それに、人と同じように人権を持ってるよ」
 二人の答えに、栄治は満足げに頷いた。
「では、人と依代の違いは」
「依代は身体が機械」
 真っ先に陽子が答えた。
「では、それ以外には?」
 それ以外……。授業では、身体以外すべて人と同じだと教えられてきた。でも、
「依代は犯罪を犯すことがないんだよね」
 私がいうと、栄治はまたしばし考え込み、煙管をくゆらせる。
「お上さんは、決して教えてならないと躍起になっておるが、既に皆、薄々と感づいておる。いずれ公になることじゃ。教えても構うまい。そう、月子のいうとおり。依代は人を殺さないし。悪事に加担しない。それは、依代が感情を制御するよう、プログラミングされているせいなのじゃよ」
 祖父は、他言無用と釘をさした。私たちは、内心うずうずとしながらも、約束を守り通した。だけど、それもやがて意味を なさなくなる。
 数ヶ月もたたぬうちに、『感情制御技術』の存在が明らかになったからだ。
 名も知れぬ一人の科学者が明らかにしたのである。顔を隠し、声も変えた彼の証言が、紙型ディスプレイのスピーカから流れていたのを聞いた。それによると、件の技術は、暗黙の了解でつけられており、方々の圧力によって隠されてきたのだという。依代の生産ラインが整えば、その実態が明らかになるのは、時間の問題であった。
 成人を前に寿命を終えると知ったとき、死ぬか依代になるか選べる法が禍した。意志を伝えぬままに亡くなったら、親がその判断を下す。必然、人口はそれを期に激減した。
 決して対岸の火事ではなかった。火の粉がこちらまで降りかからなければ、私と陽子の未来は全く別のものとなっていたはずであった。
 クラスの半分が依代となり、残りの半分が親の判断で死に至ったころ、私の元に一枚の手紙が届く。月一の健康診断を行っている病院からだった。
 私の血は、もうすぐその脈動を止める。

 最も嘆いたのは陽子だった。
「月子が死ぬなら、私も一緒に死ぬ」
 私はしばらくの間、答えることができなかった。
 陽子の玉のような瞳が、真っ直ぐに私を見つめている。とても綺麗な目だな、とこんなときであるのに、ふと思った。
 私と同じ眼が私を見つめている。合わせ鏡のように、瞳のなかに私の瞳が像を結んでいる。
「でも……、依代になれば」
 ようやく口に出した言葉に、陽子は、
「だめだよ。月子が月子でなくなっちゃう」
 と涙ながらに言った。
 私の心は大きくなびいた。人と依代は違う。私が依代となったら……。陽子がどこか遠くに行ってしまうような気がした。片方の鏡が取り払われるような、つながっていた糸が、プツリと切れてしまうような、そんな不安が胸の内を埋め尽くしていく。
「依代になったら、陽子は私を嫌いになるの」
 陽子は口を噤んだ。答えられるはずがない。私が陽子の立場だったら、同じように口を結んだだろう。卑怯な問いだと自らも思う。だけど、尋ねずにはいれなかった。
 私はどうすればよいのか、わからなくなっていた。少し前までなら、迷わずに依代となる道を選んでいただろう。でも、依代が人と遠い存在なのでは、と囁かれる今、心の天秤は大きく揺らいでいた。
 それから時を経ずして、両親より手紙が届く。いつもなら、私と陽子の二人にあてたものが届くのに、このときばかりは、宛名は私だけだった。
 むさぼるように手紙を読んだ。文面を理解するにつれ、目頭から熱いものがこみあげてきた。
 天秤は傾ぎ、静止した。
 今にも走り出して、陽子に伝えたかった。だが、手紙の最後には、このことは誰にも伝えてはいけない、月子にも、栄治にも、と記されていた。
 この身を機械として生きることを、陽子はどう感じるだろうか。
 数日後、私は決心が鈍らぬうちに、陽子に内緒で病院を訪れた。作業は思いのほか、すぐに終わった。いや、実際はかなり長い時間を眠っていたから、そう感じただけかもしれない。
 新しい身体に宿った実感はなかった。もとの身体は、目を閉じて寝入っているよう。まるで幽体離脱でもした心地だった。
 私だった身体は、冷凍保存され、依代の身体が停止する時、一緒に火葬で燃やされるのだという。
 かくして私は依代となった。そのことを、真っ先に陽子に伝えた。彼女は、依代となったことを咎めたりはしなかった。複雑な表情を浮かべ、ただ一言、「月子」と呼んでくれた。
 私の背に陽子の手がまわされる。強く強く、彼女は私を抱き締める。
 まだ、陽子の体温を感じていることができる。
 それが、なによりも嬉しかった。
 今、陽子に包まれている私は、間違いなく彼女を求めている。
 たとえ人と違ったって、それを否定することなど、誰にもできない。


    幕間

 旧型の液晶画面に、一人の科学者が映し出されている。歳は壮年といったところ。あごに白い毛の混じった髭をたくわえている。青い縁の眼鏡の奥からのぞく瞳と視線が合えば、誰もが温和な人だと想像をつけるだろう。
 彼は一見、椅子に腰かけているように見える。だが、実際は海外におり、そこに映し出されているのは、ホログラフィー映像であった。近年、ディスプレイを使わない三次元映像を、空間に上映する映画がつくられるほど、技術は進歩していた。肌の質感まで、完全に再現した映像は、まるでそこに彼が存在するように錯覚させる。
 彼は、対面に座る司会者の女性の問いに丁寧に答えていた。
「では、感情制御など、すべきでないと主張されるわけですね」
「ええ。人と同様の権利を与えるというのに、人間の根幹ともいえる心が、次第にずれてしまっては、皆が彼らを人とみなさなくなる。現に今がそうではないですか。たてまえは人と同様に扱えという。しかし、現状をみれば、労働時間は依代が圧倒的に多く、賃金も低い」
 彼は抑揚のある、よく通った声で、手振りを交えて語った。
「なるほど。では、現在人口の急激な減少が社会問題となっております。秋津さんが語られることとも関連があるとお考えになりますか」
「それは、あなた方のほうがよく報じられているのでは」
 二人はわざとらしく愛想笑いをした。
「秋津さんは、ロボットも人と同じように感情を持つべきだと、以前語っておりましたよね」
「そうです。私の理想はね、人もロボットも依代も、分け隔てなく触れ合える世界をつくりあげることなんですよ」
「かなりの反発があることが予想されますが」
「たしかに、悪用されたり、犯罪の種となる可能性は無視できません。ですが、技術の進歩はとまることはない。そのため、どれだけの規制があったとしても、いずれは機械が人と同じようになる日がくる。そこに、疑問を持つ方はおられないかと思いますが」
 途端、画面のあちらこちらに雲のようなものが現れる。一つ一つに文字が刻まれている。
 彼の語る理想を指示するものもあれば、ばかばかしいと糾弾するものもあった。すぐに画面上が一杯になり、出演者の姿が見えなくなったところで、雲は霧散した。
「さまざまな意見が寄せられているようですね。この意見は、後にホームページにてご覧になることが出来ます」
 カメラに目線を転じていた彼女は、秋津博士に視線を戻す。
「もしそのような社会をつくることができれば、そして、それが理想郷であるならば、ここまで意見は対立しないでしょう。さまざまな困難が付きまとうと、同業の方からも苦言を頂いていると伺っております」
「別に私は、単にロボットが、依代が、人と同じように生活するだけで、社会が混乱することはないと考えています。だってそうでしょう。人だけの社会に、どれだけの歪(ひずみ)があったことか。歴史を見れば明らかです。
 人口の減少は、止めることはもはや不可能でしょう。社会を維持させるために、私たちの営みの糸を途切れさせないために、できることに命を捧げる。と、こういうのを科学の檻に囚われていると、誰かが語っておりましたっけ」
「様々な意見があるとは思いますが、理想を追い求める姿には、感動を覚える若者も少なくないと聞きます。
 秋津さんには奥さんがおられるんですよね。彼女も同じ研究に携わる科学者とか。とても心強いのではないですか?」
「心強いなんてものじゃないですよ。今は、彼女の足を引っ張らないようにするのが精一杯で」
 二人が和やかな笑みを浮かべたところで、チャンネルが切り替わった。
 次に移ったのは、秋津と同じ年頃の男性。口元に髭をたっぷりとたくわえ、天辺ははげていた。その表情は厳しく、声を荒げていた。何かの集会の様子を収めたものらしい。
「今、人は機械に置き換わろうとしている。それがどれほど恐ろしいことか。よいか! 依代は人を産めぬ。依代同士はもちろんだが、もし人と依代が結ばれても、子孫を残すことはできん。
 クローン人間をつくろうと考える輩もおるようだが、言語道断だ。生命を持て遊ぶなどあってはならぬ。
 我々は、いまや人類の最大の敵となった病に打ち勝ち、かつての隆盛を取り戻すために命を捧げる。医療研究の投資に金は惜しむまい。人のみの社会を永続させる。その道筋を、再び描く。その理想の前に、、依代は、ロボットは、癌にしかならん。
 人よ、人であれ!!」
「そうだ」
「人よ人であれ!!」
「元道さま!!」
「元道さま!!」
 観衆が一斉に叫んだ。立体音響装置より、溢れる大唱和。画面を瞬きもせずに見つめていた、一人の女が、「元道さま……」と恍惚の笑みを浮かべ呟いた。




 ふたつの道

     一

 月子が依代となった。とはいえ、しばらくはその実感が芽生えてこなかった。外見は以前と寸分も違わない。話してるときだって、その口が以前とは別のものなのだとは、どうしても考えられなかった。
 きっとあれは悪い夢だったのだ。月子は、病になどかかっていない。今も人として、その身体の内を、血潮が流動しているに違いない。そう思い、過ごそうとした。
 だが、否応なく人と依代の違いは明らかになっていく。クラスの半分以上が依代となって幕を閉じた中学校時代、それは嫌というほどに見せつけられた違いだった。
 同じ女子高に進学して、しばらく経った頃のこと。体育の授業で月子が転んだとき、人口皮膚がむけ、内部の配線がむき出しになることがあった。人と同じように痛がり、歩き方がすこしぎこちないものとなる。
 感じてはいけないと、強く自分をいさめる。しかし、深く抉られた傷のように、思い浮かべた言葉は消えてくれない。
 キモチワルイ
 ヒトデハナイ
 ホントニアレハツキコナノ?
 はじめて胸裏に沸き起こった感情だった。私は胃からこみ上げてきたものを吐き出した。
 保健室に運ばれていった月子が、振り返った。珠のように丸い二つの瞳が、まっすぐに私を見つめていた。

 依代は、年に四回、バッテリーを充電しなければならない。月子はその役目を私に頼んだ。一人ではできない作業なのだ。
 椅子に座った月子は、服をたくしあげ、背を露にする。二つあいた小さな穴に、電力を供給するプラグを差し込む。たった、それだけのこと。
「どうしたの」
 プラグの先を手にしたまま動かない私に、月子が呼びかける。
 充電が始まれば、月子は一日中眠り続ける。人に極限まで近づけるべくつくられた依代は、自動で動いたり、電源が入ったりすることはない。自律機能が麻痺する充電の間、いわば仮死の状態にある。人の手が加えられる機会は、充電と、年に一度の定期点検の間のみ。その時間は、依代と人との違いが、明確に現れるときでもある。
「陽子」
 月子を生かし続けるための作業を、躊躇する私に、彼女は優しく声をかける。
「私は誰?」
 ふいに月子が尋ねた。私は、彼女が何でそんな問いを口にしたのか、疑問に思いながらも、
「月子」
 と呼んだ。
「ねえ、知ってる? 月は太陽がないと光ることができないの。だから、陽子がいないと、私を呼んでくれないと、私はここにいることができない」
 そういって、月子は後ろ手に、私の右手を自分の背へと導いていった。眼を閉じる前に、月子は「おやすみなさい」と呟いた。
 ふいに、目頭から熱いものがこみ上げてくる。腕をだらりと垂らし眠る月子を、私は深くかき抱いた。口から漏れる空気の音はしない。鼓動の音も聞こえなかった。
「眠ったかね」
 栄治の声が、薄い扉の向こうから聞こえた。
「うん。眠ったよ。眠った。ぐっすりと」
「明日には起こしてやらないとな」
「うん。大丈夫。明日になれば、太陽が昇るから。私が照らして、起こしてあげないと……」

 高校時代、私は死に物狂いで勉強した。月子に進路を教えることはなく、月子もまた、自らの道を歩むべく勉学に励んだ。学部は同じであったが、私たちは違う大学へと進んだ。それからはあっというまだった。
 自分の頭の指向性は、自分自身、一番理解しているつもりだ。工学部へといければ理想だったが、オイラーの公式をなるほどと思えぬ私には、通れぬ道と諦めざるを得なかった。
 両親からの支援もあり、存分に学業に専念することができた。そして、日本最大の書庫である、国立国会図書館に職を得ることになる。
 すべては月子を知るために。私は月子のことを、依代のことをあまりにも知らない。
 高校・大学と、余った時間を割いて調べはしたが、しょせん学校の資料である。得られる情報は限られていた。国会図書館にも、何度も足を運んだが、発禁図書はもちろん、依代に関する機密文書も、それに類する書籍は、総じて厳重に管理されており、一部の者しか触れることが許されなかった。
 その一部の者。図書館の司書という職に、ついに私は登りつめたのだ。
 情報の管理は、データが主流となっていった。だが、それは大衆に知れ渡ってよいものに限られた。機密文書などは専ら、古来からの伝統である紙媒体に限られた。セキュリティーの発展が、ハッカーの情報搾取能力に追いついていない現状を考慮したのだ。
 それは私にとって都合の良いこと。
 司書は知る権利を有していた。同時に、秘匿する義務も有していた。情報が流布すれば、すべては司書の責であった。ノブレスオブリージュ。持てる者の義務。そう教えられた。
 とはいえ、国家機密など扱えるはずがなく、流布されても、即反逆などには繋がらぬ図書ばかりである。それでも、私が手に取ることができる本の数の多さを位付けしたとしたら、日本国内でも指折りであろう。
 ゆえに、知に飢えた人々を主とし、司書を目指す者は多かった。高校、大学と語ることがなかったのは、応募定員の十倍以上の倍率のなか、勝ち抜かなければならなかったからである。
 かくして、私は職を得、さらに多忙な日々を送ることになる。
 月子はといえば、小学校の教職に就いた。なんてことないと、誰もが思うかもしれない。しかしそれは、当時としては異例のことだった。依代は幼い子供に触れる仕事には就けない、というのが常識であったからだ。
 依代は感情に制御を受ける。それが影響するかどうかは明らかにされてないが、子供たちは概して、違和感や反感を覚えるのだという。依代という箱自体、まだ成長段階であったのも理由の一つとして考えられていた。動作ひとつひとつの、微かな人間との差異を、子供は敏感に察するというのだ。
 まだ死病の潜伏期であるといわれる小学校の時代に、死者がでるのは稀(まれ)であった。流行病とは別の原因で倒れる者もいたが、彼らは皆、依代だけの学校に転入した。
 保育所、小学校など、幼い子の集まる一部の場所のみが、いわば人の聖地であったわけだ。そこに、依代である月子が入り込んだ。
 はじめての依代の先生に、マスメディアはお祭のように騒ぎ立てた。月子は一切の取材を断った。人と依代は一緒であるのに、なぜ区別するのかわかりませんと、はねのけた。
 月子に話を聞くと、採用試験の面接以前に、何度か小学校に訪れたそうだ。その際、動じる子供たちはいなかった。皆親しげに接してくれ、応対した先生も、彼女を人間と勘違いした。そのときは、依代である身分を明かさずに訪ねたというのだから、はじめて彼女の身体が機械であると知った面接官の驚きは、想像に難くない。
 依代を拒む理由を払拭し、月子は望む職を勝ち取った。
 こうして私たちは道を違った。ともにいる時間も、自然と少なくなっていった。
 私たちは知っていた。もう離れ離れになっても大丈夫だと。遠くにいたって、その鼓動を、吐息を、温もりを感じることができる。それは月子と寸分違わぬもの。なによりも強く、二人を繋ぐは、見えない心の糸。
 私は月子を知るために、月子は月子としてあるために。
 糸をより長く、強靭なものとすべく、歩むはふたつの道。

 月子が教職に就いたときから、彼女は他の依代とは違うと、半ば直観していた。だが、その違いが何なのかがわからない。いや、心の内には、既にひとつの答えが浮かんでいたのだ。しかし認めるわけにはいかなかった。認めてしまえば、月子は、いてはいけない存在となってしまう。
 確かめるのは最後にすべきだ。それは自らの勇気の欠如からくる逃げであった。月子を知るためには避けて通れる道であるのに。私が知ってしまうことは、すべての人に知れ渡ることと同意。そんな恐怖を抱いていたのである。
 この選択が、過ちであると気づくのは、まだずっと先のこと。

 依代は定期のメンテナンスが必要となる。一年に一度は、専門の技師に頼んで、不具合があるか確かめてもらわねばならない。ボディの人工皮膚を付け替えるのも、この際である。一歳分、歳をとらせばよい。モデルは選ぶまでもない。私だった。
 この時間を、月子は異常ともいえるほど、ひどく脅えていた。依代が最も人との違いを見せる場。その内容を知ったときから、密かに私は勉学に励んでいた。司書になるための学習の傍らでも、絶えずつづけてきたものだった。何のための勉強かといえば、整備技師の免許を取るためのものだ。
 理系の大学へ進むことを、一度は諦めた私にとっては、険しい道のりだった。事実、何度も試験に落ちている。仕事との両立は、疲労をため、一度は病院に運ばれた。
 月子は、年にたった一度の辱めなのだから、耐えられる。そういって私を気遣ってくれた。だが、私の耳には、その声は届かなかった。何度諦めるよう促されても、立ち止まることはなかった。
 司書になって、二年目。ついに私は整備技師の免許を手に入れる。いってしまえば簡単なことに聞こえるかもしれないが、合格ラインぎりぎりの成績だった。
 合格の知らせがきたときは、諦めるようにいっていた月子も、涙して喜んだ。おめでとう、ありがとうと、苦しいほど強く抱きつかれた。
 月子のメンテナンスの権を得た後も、私は休むことを厭(いと)うた。
 仕事の合間を縫って、依代について克明に記録した。帰ってからは手記を取り始めるようになった。これまで綴(つづ)ってきた日記と、分量は比べ物にならぬほどに多くなった。月子と生きた証を残すために、妥協はしたくなかった。
 そのころ、久方ぶりに、両親から贈り物があった。それが、メイドロボット、アオイとの出会いだった。
 
「ほう。こりゃ、最新型じゃな」
 玄関口に置かれた人間大の電磁シールドボックスを見て、栄治は感嘆の溜息をついた。孫娘が職を得て気が抜けたのか、体調を崩しがちな栄治が、これだけ元気な様子を見せるのは久しぶりのことだった。まるで少年の頃に戻ったようなはしゃぎっぷりだった。
「いままでとなにが違うの?」
 月子が興味深げに尋ねる。
「感情を表現する以外は、極限まで人に近づけるという、最新の人工知能を搭載しているようじゃ」
「感情は付け加えちゃいけないんだっけ」
 これには私が答えた。
「そもそも研究が進んでいないってのもあるわね。人の脳のデータを移植することで、感情伝達の回路は形成できるから、必要性は感じられていないんだって」
 公には明らかにされていないが、私は自らの立場を使い、今のロボットや依代をめぐる情勢について、メディアに負けぬくらいの知識を会得していた。
「職権乱用じゃな」
 栄治が豪快に笑った。彼の笑顔を見ることも、しばらくはなかった。新鮮とさえ思えてしまったのが、すこし申し訳なかった。たまにはゆっくり休む日をとって、昔のようにいろんなことを教えて欲しい。ふとそう思った。
 と、その栄治は、大きな箱に添付されていた封筒をしげしげと見つめて、
「ふむ、こりゃ便箋じゃな。どうやらこのロボットは陽子に贈られたものらしいの」
 昔も今も変わらない、紙の封筒を私に手渡した。
「宛先は私だけ?」
「えっ、ずるい。私にも読ませて」
 月子が好奇の目を近づける。「だーめ」と身体をぴったりくっつけてくる月子を引き離す。
「月子も前に、自分宛のもらったでしょう。あれ、見せてくれれば――」
「だめっ!!」
 彼女は声をあげる。添えつけられていた説明書を読むのに夢中だった栄治も、何事かとこちらを振り返る。
「どうしたんじゃ」
「とにかくだめだから。ごめんね。私も、陽子の見ないから」
 親に咎められた子供のように、肩をすぼませ月子は自室に戻っていった。悪いことをしてしまった。同時に、この手紙は、まだ月子に見せてはいけないような予感もしていた。随分と自分勝手な直感だけど。
 私は遠くにいる両親に心の中で悪態をつく。たまには帰ってくればいいのに。なぜ片方だけに手紙を送るのだろう。
 封筒の中の便箋には、丁寧な筆跡で文面がしたためられていた。最初の数文を読んで、私は顔をあげる。
「あとで、ありがとうっていわなきゃ」
 栄治は、事情を察しているのか「よかったの」と声をかけた。
「うん……」
 このロボットは、月子が私の多忙を見かね、両親に送ってもらったものだった。

 それからは、日々の雑事はほとんどロボットのアオイに任せることになった。食事、掃除、洗濯、あらゆる家事を頼むようになり、私はその傍らで、手記をしたためつづけた。
 アオイが働くのは主に平日だ。月子は家からかなり遠くの小学校に異動となり、家にいる時間も自然に少なくなった。栄治はといえば、アオイに世話をされる役目となっていた。
 たまに、祝日など休みが重なると、月子は私を部屋から連れ出した。買い物に行ったり、映画を見に行ったり。手記を記す作業を一切禁止した。
 私は素直に従った。糸が切れていないか確かめる、それは儀式のようなものだった。
 あるときは遊園地に遊びに行った。楽しそうに話す家族連れや、腕を組み歩くカップル。人と依代の組み合わせは、傍からみたら滑稽(こっけい)だろうか。人は人と、依代は依代と番をつくる傾向があるのは、よく知られている事実だった。
 私たちは、普通の姉妹に見えているのだろうか。人と依代の混ざった、濁った雑踏の海の中、ふと思った。
 不安を顔に出してしまっていたのか、月子がそっと私の手を握った。月子の手は温かかった。私と同じ体温のはずなのに、なぜだかそう感じた。
 時代が進んだといっても、人を楽しませるアトラクションに、主だった変化はない。ジェットコースターにメリーゴーラウンド、コーヒーカップなど、私たちは昔から慣れ親しまれている乗り物に乗って、ときに叫んだり、ときにゆっくりと歓談をした。立体映像が浮かんできて話しかけたり、脅かしたり、まるで異世界に飛び込んだみたいな感覚。声が枯れてしまうか心配なほどに、たくさん笑い、悲鳴をあげた。
「楽しんでる?」
 月子が尋ねたのは、喫茶で豪奢なパフェを分け合って食べているときだった。
「もちろん。月子と一緒なら、どこへ行ったって楽しい」
 それは本心からでた答えだった。
「でも、まだ疲れた顔をしてる」
「それは、今日たくさん乗り物に乗ったからで。充分に楽しんだから、大丈夫」
「……陽子は人なのよ。お願いだから無理は――」
「わかってる。わかってるわ。だから、今は……」
 依代は、疲れを感じることはあっても、それを理由に倒れることはない。病に伏すという現象を、まだ人と依代は共有していない。
「ごめん」
「別に、怒ったりなんかしてないから」
 考え込むように月子はうつむいた。やがてグラスの中身が空になって、次はどこに行こうかと訊くと、
「あそこに行きましょう」
 と、観覧車を指差した。
 二人で出かけるとき、月子は仕事の話も、その裏で何をやっているのかも訊こうとはしない。
 だが、彼女は二十分間の幽閉のはじまりに、口火を切った。
「陽子が調べていることについて、教えて」


     二

「二十分もないわ。それに月子に教えるようなことじゃ――」
「隠し事をするの?」
「なんで、そんな恐い顔するの……」
 恐い顔にだってなる。陽子はアオイが来てから、暇があれば書くことに没頭した。一日経つほどに、彼女の表情はけわしく、硬いものとなっていった。それは疲労からくるものではない。私は確信していた。調べる度に不吉な情報を得ることで、彼女の精神が疲弊しているのだ。
「陽子、アオイの型番を教えて」
「ELTδ-15(エルト・デルタ-15)」
 ELT。the End of the Line for Technology(技術の終点)の頭文字をとった人型ロボットの総称だ。そこから分化した依代の型式は、数値の前にDがつく。dwell(宿る)の意味があるのだという。私もその系列であるはずだった。それもいささか旧式の。今の主流はELT-δ-D15。ロボットと依代の機能進歩は、わずかな違いはあれど、似たような系譜を辿っている。廃熱処理であったり、バッテリー性能の向上、駆動のメンテナンス周期が長くなったり、ささいな進歩であった。旧式といっても、メンテナンス時、ボディをアップデートするために、人工神経の伝達速度などは、新型と同等だった。旧式と新型との違いは、誤差程度のものとなるまで、技術は進んでいた。
 これが、高等教育までに知りえた知識。だが、ロボットと依代の分化が起こったγ(ガンマ)型について、そしてδ型への変遷時に何があったか、一切は明らかにされていない。
「じゃあ、私の型式は? 陽子ならわかるでしょう」
「…………それは……」
「たしか、整備指南書を持ってるのは、陽子よね。なら――」
「わからないの」
 私は耳を疑った。
「どうして?」
 陽子は言いづらそうに語った。型式の記されているところだけが、黒塗りにされていたのだという。
「たしかその頃は、δ-D6が出始めた頃よね。」
「私も気になって、すぐにスペック(仕様)を見たわ。その型番の依代と、違いはなかったけど……」
 では、なぜ型式を隠す必要があったのだろうか。陽子の顔振りは、その答えを知っているとことをものがたっていた。
「ねえ。γ型からδ型に移行するとき、一体なにが変わったの」
 γ型の依代は、ほぼ進化を終えた頃のロボットを基礎としている。しかし、初期の時代、相次ぐ不具合が確認されていた。それが、δ型になると、ぴたりと止まった。そこに誰が関わったのか、何を変えたのか、公にはされていたない。
 観覧車の箱が、強風が吹いたのかかすかに揺れた。いつのまにか、一番高いところまで回っていたようだ。ガラス窓の向こうには、巨大なビルが乱立している。山の峰がなんとかのぞけるほどの、コンクリートづくりの山脈。これでもまだ、私たちの住む街は、田舎と言っても良いくらい、都心のビルは高い。あんなに高くして、天にでも触れようとしているのだろうか。月には基地がつくられ、火星にも人が上陸した時代に。
 その月は、地球から渡った何某(なにがし)かが病を運び、依代の用意のあった地球と比べ、悲惨な状況になっていると聞いている。
 陽子が口を開くまで、私は人の営みの、行きついた先を眺めていた。何の感慨も湧かなかったから、感想を口に出すこともなかった。観覧車は夜景を眺めるための乗り物と、ほとんどの人が認識している。
 半分を回りきり、高度が下がると、わずかにのぞいていた山も、摩天楼の海に沈んでいった。まだ降りるまで、十分近く残っている。
「感情制御技術」
 陽子は、壊れた機械が動作を思い出したかのように、呟いた。
「γ型は、それによって人工神経の回路の伝達を、いたずらに妨げていた。だから、不具合が生じたの。当時は、人に不都合な思考を、完全に遮断しようとしていた。それを、人の都合の良い方に、自然と導いていくよう組み替えた。それがδ型」
 事務的な口調で、陽子は語った。感情が、語るのを妨げないようにしているのかもしれない。他言無用の事柄と、私はすぐに察した。
「それを開発したのは、」
 秋津博士。私と陽子の両親であった。

 日が経つにつれて、人と依代との違いに気づいていく辛さを、私は想像しえない。依代であるから感じないのか。それとも……。
 陽子はどこまで知っているのだろうか。
 私は答えを知っている。しかし、それを教えるのは、まだ尚早だ。陽子の心がゆらゆらと揺れてるのがわかる。私の心も同様に。
 観覧車が回りきるまで、まだ時間があった。陽子は顔をうつむけ、それ以上話すことはないと、声を出さずに語っていた。
「ねえ、陽子」
 努めて朗らかな声で尋ねると、話題を変えようとしているのを悟ったか、陽子は顔をあげた。
「星はなんで生まれるか、知ってる?」
 私たちの答え合わせには、まだいくらでも時間がある。その前に、もうひとつの宿題を片付けないと。
 観覧車を降り、他にいくつかの乗り物に乗ってから、帰途についた。その間私たちは星について語り合った。学び、職を得て、私たちはこんなにも知識を蓄えていたのかと、驚く。でも、明らかにされている知識を答えても、栄治は満足しないだろう。
 家路につくまで、二人だけの星の生まれるわけを、栄治に語る内容を話し合った。次の栄治の誕生日に、プレゼントとして贈ることに決めた。

     *

 月子は一体なにものなのでしょう。月子は他の依代と何が違うのでしょうか。
 そんな思考が、常に私の中で碇(いかり)を降ろしていた。
 私は私自身の答えを知るために、教職に就いた。就けたということで生まれた疑問。それが、他の依代との違いだった。
 子供は、敏感に人と依代とを見分ける。だけど、私に関してはその式は成り立たなかった。
 担当するクラスが変わっても、異動で学校を移っても、生徒たちは私を〈人〉と扱った。
 教師になったのは、祖父に憧れていたのもあるが、依代は教師になれないという常識を覆したやりたい、そんな欲求も大きな原動力となった。教員免許を得るための勉強も、子供への接し方も、決して手を抜くことはなかった。陽子が死に物狂いで書を読み、大量のノートを消費しているのを見て、じっとしていられる所以(ゆえん)はなかった。
 思っていたよりも、あっけなく先生となることができ、一時は気抜けしそうになった。いじわるな教育委員会が、保守的な親、教員たちが、がみがみと文句を並べる様を想像していたのだ。
 理由は簡単だった。教育の場は、人と依代が同じという、〈たてまえ〉の象徴であったからだ。
 ロボットや依代に嫌悪を抱くものは、そもそも免許を取得することが叶わず、そのため、他の職員方は皆、分け隔てなく私に接してくれた。
 その中でも、とくに親しくなった人がいた。彼女は久世春美といった。久世は教員の中でも異彩を放っていた。教え方が特別に上手いわけでも、絶世の美女というわけでもない。彼女が人の目を引くのは、季節を問わず身に着ける長い袖の衣服にあった。手と首、顔以外の肌は、人に見せることはなかった。下も、常にパンツスーツであった。
 それが夏であっても、まったくといって暑がる様子を見せないのである。
 久世は私の良き理解者だった。私と陽子の境遇を語ると、心から同情してくれた。依代は人と同じだと、力強く語ってくれた。たてまえで教える先生もいるけど、私は違うと彼女は言った。
 家族は病床の祖父、それに離縁状態の父母がいるだけで、一人暮らしをしているのだという。この境遇も、あるいは二人の波長を合わせる一因となったのかもしれない。
 わからないところは、先輩としてて取り足取り、丁寧に指導してくれた。陽子と休みが合わない日には、よく一緒に買い物や食事に行ったりした。同級生が次々と依代になったり、死んでいった学生時代、あまり友達と遊びに行く機会を持たなかった私にとって、まるで落としてきた青春を拾い集めるような、そんな毎日だった。
 先生としての日々は、万事が順調に見えた。子供たちに、栄治から教わった知識をたまに披露すると、みんな目を輝かした。教えるたびに、何かを吸収していく姿は、見るだけでも楽しかった。楽しいはずだった。
 陽子がもし、一緒の職業であったなら。ふと、そんなことを考えてしまう。彼女はとりつかれたように、調べ、手記を書き著していく。整備士の免許を取ってから、少しは楽になると思ってたら、むしろその逆。
 それが、私を知るための行動だとは理解していた。理解していたからこそ、なお辛かった。私を理由に、身をすり減らす陽子。たまには休んだらとすすめても、大丈夫と聞く耳をもたない。
 陽子が違う人になってしまったのでは。何度も、そんな考えが頭をよぎった。それを振り払いたくて、陽子と私の心が、まだつながっていることを確かめたくて、二人が休みの日は、有無を言わさず一緒に過ごした。
 陽子が、職を得、なお身を粉にする姿を、見ているだけなんて、とても耐えられなかった。私もなにかしなければという焦りがあった。とはいえ、忙しい身の上、できることといったら、日記を記すことくらい。それも、陽子との日々を記したものばかり。心の逃避行に他ならなかった。

 時は容赦なく過ぎていく。私たちは人生の四分の一以上を〈生きた〉。当然、その中で人は死に、また生まれる。その割合は大きく変わっていたが。その法則が身近にもあてはまる事実を、人は自然と除外しているのかもしれない。身内の死が信じられない。傍にいた人がなくなる。そんな不意打ちこそが、悲しみの源なのだと思う。
 栄治の誕生日を三日後に控えたある日、彼は病院に担ぎ込まれた。意識は保っていたが、助かる見込みはないと、医師は淡々と語った。
 誕生日プレゼントが、冥土の土産となってしまう。私と陽子は悲嘆に暮れた。
 ずっと以前から、その日だけは休みを取れるようにしてあった。
 時代がどれだけ進んでも、人が最後に眠るのは病院のベッド。医療技術がどれだけ進展しようと、新たな病とのいたちごっこが続くだけだ。そして、人はその競い合いに敗れた。
 栄治は、たくさんの管に身体をつながれていた。テレビドラマや映画でよく見る、心拍数のグラフが、規則的な周期で波形を描いている。ピッピッと静寂に包まれた部屋で、ただひとつ鳴り響く音は、深夜、寝付けないときに時計の針が立てる音と同じくらい、不気味だった。その感覚は、子供のとき以来、もたなくなってしまったが。
 しわがれた顔、その眼がかすかに開き、こちらを見た。私は身をこわばらす。陽子も緊張している様子なのが、雰囲気で伝わる。
「はて、陽子か月子が二人いる。陽子が二人か、月子が二人か」
 とぼけた声に、二人は思わず笑みをこぼす。その様子がまったく同じだったから、「鏡でもあるのかの」と栄治がまた言った。
 このままだと、彼がぼけるだけで終わってしまいそうなので、二人は自らの名を口にした。
「あのね、おじいちゃん。私たち、おじいちゃんが昔与えてくれた宿題の答え、考えてきたの」
 陽子が切り出すと、「はて、宿題とな」とすっかり忘れた様子で、思わず肩を落とした。
「星が生まれる理由」
 私が言うと、栄治は「わかっておるよ」と、くつくつと笑みを浮かべた。本当に覚えているのかどうか疑問を抱いたが、彼の向ける視線は、光を帯びていると錯覚するみたいに強いものだった。まるで憧憬を抱いているかのような……。そうだ。私たちが昔、栄治の話を聴いたときに浮かべた表情と似ているのだ。私は陽子を見て、知っている。それは、教えている生徒たちの見せるものとも、また違ったもので、子供が家族旅行に行こうと親に告げられたときの顔と似ていた。
「さて、聴かせてもらおうかね」
 私たちは頷きあい、栄治との最後の授業をはじめた。
「はじめは、図書館の文献を漁って、答えを探したの。だから、思いのほかあっけなく答えは見つかった。でも、おじいちゃんが求めているのは、そんなものじゃないでしょう」
 しっかりと栄治の耳に届くよう、昔父がからはきはき喋るようにと、教えられたとおり、陽子は言葉を紡いでいく。私が、それを引き継ぎ語る。
「私たちは、星ははじめ、ひとりぼっちだと考えたの。その星は独りだから、寂しくて仲間が欲しかった。だから、その孤独な星は、とても強い光で宙(そら)を照らした」
「そしたら、その星は、まわりにもたくさんの星がいることに、はじめて気づくの。生きるってことは、自分だけでは証明できない。生きて、死んで、それからもずっと生きたことを確かだといえるには、自分ではできないこと」
「なにもないところから、新しいものが現れる。屁理屈かもしれないけど、これも、生まれるってことなのだと、私たちは思う。星は、たくさんの星を照らして、照らされて、いつだってそこにいることを確認し合ってる」
 宇宙の始まりは、光に満ちていた。この光をひとつの星とするならば、この答えも、あながち間違いではないのかもしれない。
 栄治は、満足げに頷いて、頬に涙を流して言った。
「お前さんたちらしい答えじゃ、まったく」
 視線を天井に移し、
「これで思い残すことはない、といいたいところなのだが、まだお前さんたちに話さないといけないことがある」
 既に緩んだ表情は影を潜めていた。どこか、懐かしげに、しわのよった目を細める。
「話さないといけないことって?」
 口に出したのは陽子だった。私は、なぜだか聴くのがすこし怖くて、押し黙っていた。
「元道という名を知っておるかの」
「たしか、名前は忘れたけど、何かの宗教団体の頭首でしょう。依代を全部廃棄しろとかいう、わけのわからない奴」
 答える陽子の声は、怒気をはらんでいた。
「まあ、そんなに憤りなさんな。あれでも、一応わしの教え子なのじゃから」
 これには陽子も声を失った。
「もし、彼にあったら、……もちろんあやつ自身が過ちに気づいことが前提じゃ。そうでなければ、話を聞かぬ機関銃でしかないからの。銃が塞がっていたのなら、教えてやって欲しいのじゃよ。人は、どうすれば生きつづけることができるのか。それは、奴自身が拒み続ける方法でしかない、とな」
 栄治はその方法について語る。人が死んでなお生きつづけるには、
「簡単なことじゃ。誰かが、記憶を引き継いでくれればよい」
 その言葉には、何か隠された意図があったように感じた。でも、それを確かめる前に、栄治は目を閉じ、辞世の言葉を述べた。
「お前さんたちが、そしてお前さんたちの〈子供〉が、わしの記憶を生かしつづけてくれる。それは、とても幸せなことなのかもしれんの」
 その言葉の真意を知るのは、ずっと先のこととなる。
 テレビドラマなんかだと、こういった台詞のあとに、心拍数が0になるのが、お決まりだ。だが、栄治はすやすやと眠ってしまった。それだけだった。
 彼は、それから一ヵ月後にこの世を去った。いや、一ヶ月も生きた、といった方が正しいかもしれない。事実、担当した医師も、驚き困惑していたし、栄治も、「ほんに、気まぐれな身体じゃ。かっこよくこの世を去ろうとしていたのを!」と怒気を含んだ声で、嘆いたものだった。
 その一ヶ月間。時間に追われる毎日から少しだけ抜け出して、私たちはなるべく祖父と話をして過ごした。栄治が教えるのではなく、私たちが知ったいろいろなことを、披露したのだ。
 こうして、栄治は彼らしい死に方で、人生の幕を閉じた。悲しみの中にも、ちょっぴり笑みが浮かんでしまう。
 葬式には、たくさんの人が詰めかけ、彼の死を悼んだ。

 そして、間をおかずして、もうひとつの訃報が、私たちの耳に届くこととなる。


     幕間

 電気店に置かれたディスプレイの列が、様々な番組を映し出している。立体映像が浮かんでるようなものもあれば、本のような形のものまで種々雑多であった。床から天井まで高さがある、映画のスクリーンさながらのものまである。
 総じて映し出されていたのはあるニュース。温和な表情の男性と、朗らかな笑みを浮かべる女性の顔が並んでいる。
 人々のざわめきで、音声は聞き取りづらい。
「……五日前に死亡が確認されました。秋津夫妻は著名な科学者であり、…………殺害されたとの憶測も…………団体の元道氏が殺害を示唆する生声明を出したということです。
 秋津夫妻には二人の子供がおり……………………」




 あらゆる面で異端

     一

 人は有史以来、常に知を求めてきた。この世のすべてを知るべく、あらゆる学者が理論を組み立て、数式を編み出し、数多の謎を解明していった。私もその大きな流れに巻き込まれているのかもしれない。
 私は、依代について調べることが、はたして月子を知ることに繋がるのか、疑問を抱き始めていた。単に、自らの知識欲を満足させるために行ってるのではないかと。
 それに気づいたとき、もうやめてしまおうか、月子と共に過ごせばいいではないか。そんな囁きが聞こえる。思い、悩み、一歩足を止め。だが、すぐにまた、とりつかれたように調べ始めている。足を止めることを、生きる意味を見失うことを、私は恐れていたのだ。
 調べ写す。単純な行為に、だが、最初のころは震えていたものだった。犯罪行為に他ならないのだから。
 いつものように、司書仲間の目を盗み、図書を運搬する間を縫って、目的の書物を手にする。ハンディスキャナを用い、一ページ一ページ読み取っていく。一ページを読み取るのにかかる時間は一秒にも満たない。手馴れてくれば、一冊を読み取るのには、平均二分弱といったところか。あいにく、その場でパラパラと本をめくり、暗記できるほどの記憶力は持ち合わせていない。
 本の管理は、書が安置されているか否かを調べる旧世代の機械によって行われる。セキュリティはあってないようなものだった。だがそれは、私たちにとってのみあてはまる。職員の証を持たぬ者が侵入すれば、あたりを巡回する警備ロボットに排除される。
 となると、最大の穴は私たち司書となる。恐怖的な教育がなされ、知識を世に広めることを禁ずる令があるのも必然。これまで、司書によって情報が漏洩する事件は起こっていない。世に自らの知識を知らしめたい、広めたいと願う者は、適正検査で落とされるとの噂もあった。職員の間では、既に噂ではなくなっていたが。
 この国では知る権利と報道の自由が保障されていない。国境なき記者団はじめ、各国――主に依代を持たない国々――からの批判が相次いで表明された。しかし、日本政府はこれを黙殺しつづけている。依代反対派が、数の力を得ることができなかったからだ。前時代のような、官僚答弁によって糾弾の声をかわし、時が彼らの声を枯らしていくのを待てばよかった。
 いずれ、知る権利など叫ばれなくなるだろう。報道する側は、依代が多数を占め、政府に都合の良い記事を書くことになる。秋津博士、私の父・母によって開発された感情制御の回路はすきなように弄(もてあそ)ばれている。その問題を指摘する数々の論文は、世に出ることなくこの図書館に封殺される。反政府的な科学者は、依代と変えられた。科学の発展のための特例措置と偽って。それは政府による殺人に他ならなかった。
 月子に教えたことは、たとえ世に漏れても罰金で済まされる程度のことでしかない。本当のこと……。私だって信じたくないのに、どうしてそのようなことを教えることができるのだろうか。
 依代は人であるべきと訴えていた両親が死んだ。はじめは政府が裏で糸を引いているのではないかと勘ぐったが、ニュースで伝えられた名は、栄治が死を前にして教えたもの。元道は知らないのであろう。手を下すべきは、もっと上のところにあると。唯一の止め具を外された国が、何をしでかすのかわかっていない。依代は内部に格納された数十年前のスーパーコンピュータなみの頭脳を別に持っており、常には眠らせている。人の脳がすべて活動していないのとおなじだ。人と違うのは、特別な信号を送れば、活動させることができる点。それも、命令に忠実に従うよう、設計されている。依代の開発拠点は、官営である。

 両親が死んだと知らされても、泣くことはなかった。知らない誰かが死んだとさえ思った。子どものとき以来あっていないというのもひとつの理由だ。それ以上に大きかったのが、彼らの研究内容が、私の常識の枠内から、あまりにもかけ離れていたことだ。それが、あるいは元道の目に触れたのかもしれない。
 私に反し、月子は生みの親の喪失に慟哭(どうこく)した。私にすがり、再三泣いた。涙を流す機能が壊れたのかとも疑った。でも違った。これが普通の反応なのだ。知ることのみに執心していた私は、人として当然の心さえも捨ててしまっていた。身体は人。だけど、心がない。まるでロボットのようではないか。
 月子は紛れもない人だった。入れ物の違いなど問題にならない。
 私と月子の距離が、じりじりと離れているのを感じた。ゆっくりと、しかし確実に……。

     *

 月子を整備する日がやってきた。家の一室を大掃除し、様々な測定用機器を持ち込んだ。
 複眼のように多数のディプレイが並んでいる。それ自体に測定用のプログラムが入力されている。そこから触手のように無数のケーブルが延びていた。月子はまるで秘密基地みたいと驚いた。
「今まで何度も整備を受けてきたのでしょう」
「あそこは、もっとたくさん人がいて、化け物のような機械もあった。私にはお化け屋敷くらいにしか見えなかったわ」
 月子は軽く笑んだ。私は笑うことができなかった。お化け屋敷とたとえた、その恐怖が痛いほどに感じられたのだ。
 月子の背に手をまわす。彼女がそこにいることを確かめる。
「大丈夫。これからは、私が守ってあげるから。どんなにひどい壊れ方をしたって、絶対に直してみせるから……」
 正面から見つめる私から、少しだけ視線をそらして、月子は「ありがとう」と呟いた。
 整備は頭部の検診からはじまる。月子を椅子に座らせ、ヘルメット型のキャップをかぶせる。内部にはいくつもの電極が繋がれている。活動時の脳の動きを測るためのものである。私はこの操作に
 ディスプレイ画面上の、伝達信号の値が、一年前と誤差一パーセント内に収まっていることを確認する。その後、動くものを見せたり、本を読ませたりし、脳の適当な部位が赤く表示されていることを確かめる。
 私はこの作業を行う必然性を理解できなかった。脳は人のものを移植すると教わったからだ。ならば、誤差など生じようはずがない。
 疑問を抱きながらも、各項目を確かめる度にチェックリストに印をつけていく。
 声を出すとき、同時に声紋照合も行う。黒いマスク状の計器を口に当て、好きなことを喋るように促す。すると、「陽子」というものだから、測定に対する集中が途切れてしまった。きっと脳内の奥部で神経細胞が興奮し発火しているのだろう。胸の鼓動が早くなる。
「患者さん、神経を使う作業なので……」
 月子は軽く笑って、「今の陽子を計ったらどうなるのかしら」といった。
 計器が壊れてしまうのではないだろうか。私は、恥ずかしさに取り乱してしまいそうなほど動揺していた。しかしながら、測定と照合は機械が自動で処理してくれるため、順調とはいえないながらも作業は進んでいった。
 頭部の測定が終わると、次は心拍数の測定に入る。服をたくしあげさせて、胸部を触診する。医師がするみたいに、ぺたぺたと吸盤みたいな触診器を当てていく。もちろん耳ではなく、機械による測定である。
 背の触診も終えると、月子を立たせる。衣服を脱がそうと手をのばすのを遮り、彼女は自ら、一枚一枚と身を包んでいたものを取りさっていく。
「すこしは協力してあげないと」
 月子の肌が露(あらわ)になる。白い肌、その質感や色は人そのもの。いや、浴場の姿身に映した自分自身だった。
「なぁに、じろじろ見てるの? たとえ陽子だといっても恥ずかしいんだから」
「そう? なんだか嬉しそうに見えるのは気のせいかしら」
「ばかっ……」
 顔を赤らめる月子。いつまでも見ていたかったが、今の私は整備師の陽子なのだ。仕事に集中する。
 衣服を脱がせたのは、人工筋肉の動きや体温を測るためだ。ベルト状の計器を腕、足、腰にと巻きつけていく。こうしたあらゆる部位の測定によって、人と僅かな違いがあったら、その誤差を入力し、ボディと人工皮膚の情報を書き換える。これは、月子が職を持ちつづけるための儀式でもある。事実、メンテナンスの前は、子供たちの反応が若干きついものとなるらしい。
 表面の測定が終わると、次は内部の駆動部の整備に入る。私は月子を机上に寝かせた。
「大丈夫? その、痛くなったら教えて」
「痛覚なら切っているんでしょう。それに、これからは電源も切っちゃうんだから。痛くても感じられないわ」
「恐くない?」
「恐いわ。だって陽子ったら手つきがあぶなっかしくて……。なぁんて、嘘よ。どんなひどい失敗して、よっぱらいのような足取りになったとしても、許してあげる」
「それ、励ましになってない……。でも、ありがと」
「うん。おやすみ、陽子」
「おやすみ」
 私は先が針状となっているケーブルを、月子の頭部、髪に隠された小さな穴に差し込んだ。停止コードを台に添えつけられたキーボードで打ち込む。すぐに、皮膚が鉄ほどに固まって、いくつものつぎはぎが現れる。これによって、内部まで覗くことが可能となる。
 計器を駆使し、異常の有無を確かめる。潤滑用兼サビ止めの溶液を万遍なく吹きかけていく。外部の評価で、大体の動作は確かめられている。断線がないか、配線がよじれていないかなどを見るのが主で、割合、作業は円滑に進んだ。
 残りは頭部。身体部分と同様、配線について調べる。
 ハッチを開くように、頭部を覗く。現れたのは、人工の脳だった。金属光沢が、生来の脳であることを否定する。
 父から教えられたことが嘘だと知る。衝撃を感じることはなかった。抱いた感情。それは諦めだった。月子だった断片が残されていたとしても、喜ぶ理由にはならない。月子を月子と認識する、私という観測者がいればそれで十分だ。だから、事実を受け入れることに、葛藤することはなかった。
 会話する相手もなく、黙々と手を動かしていく。
 最後に確認するのが、感情制御回路の動作だった。
 脳のすぐ傍に、赤や緑といったLEDランプが明滅している。この部位だけは独立しており、常に動作している。脳に直接つながり、感情を司る野を制御しているのだ。
「……異常なし」
 最後のチェック欄を埋める。月子の頭部を閉める。再び、キーボードで、皮膚の軟化コードを打ち込む。月子の肌が、再び弾力性のある人のものへと戻っていった。
 ケーブルを、測定結果を記録する機器につなぎ、更新情報を送信する。誤差を考慮したうえ、私の身体データと符合させる。
 月子は起き上がるまで、とても幸せそうな笑みを浮かべて眠っていた。

     *

 闇が降りた部屋、ほのかに灯された照明の下で、カリカリと鉛が紙の上を走る音だけが響いていた。近くには、アオイが静かに佇んでいる。私は紙でできた分厚い日記帳に、ハンディスキャナで読み取った書物の要旨を書き記していく。一日のノルマとして四ページ分、隙間なく埋めていく。そのために用意したのは、罫線のみが引かれた、日記帳というよりも記録帳といった類のものだった。
 書棚には、自ら買った本も多数あったが、下の一段だけは分厚い、同じ装飾の背表紙のものがずらりと並んでいる。いずれ、この一冊もあの列に加わるだろう。
 書棚の付近は、収納しきれなくなった書籍であふれていた。また本棚を買わなくては。この現状を見れば、電子書籍に乗り換えればいいじゃないかと、大抵の者はいうであろう。今書いている手記も、電子ペーパーブック上に記録してしまえば、あのように容積を取ることもない。しかし、私はどうしてもあの類を好むことができない。手段として読み取ることはあっても、だ。紙に書く感触、紙から読み取る感覚は、いかに技術が進歩しても真似することはできない。
「ねえ」
 私は一日分を書き終えると、「近くに本屋ってどれだけあるか分かる?」
 ふと興味が湧き、アオイに聞いてみた。
「都内にあるのは、大小含めて八百二十五店です」
「内訳は?」
「電子書籍専門が八百十六店、残りの九店が紙媒体も扱っています」
 いまや、ほとんどの書籍が電子化された。反射性の紙状ディスプレイの発展は目覚しいものがあった。演色を調整してやれば質感は紙と同様。目も疲れず、場所もとらないとう良いとこ尽くめで、紙の書籍は急速に衰退の道を辿った。
「そのうち古本屋はいくつあるの」
「すべてです」
「そう……」
 地方に出れば、物好きな出版社が、自費で紙媒体の本を出しているだろう。だが、そのような者好きは、果たして両手の指の数ほどもいるかどうか。
 部屋の書棚を占めているのは、ほとんどが書店の衰退期に買い集めたものだ。その他にも、図書館で捨てられる運命にあった本を、特別に譲ってもらったものもあった。
 私は深く溜息をつく。
「お疲れですか」
「ええ、外も内も、そこらじゅうが悲鳴をあげているわ」
 といったところで、余計な気遣いをかけるといったことを、アオイはしない。「ねえ」と私が話しかけるのを待っている。それでいい。栄治がいなくなったあと、月子に言えない話をする相手は彼女しかいなかった。無味乾燥な彼女の受け答えが、今の私には心地よかった。
「ねえ。ロボットでいることって、幸せ?」
 アオイは一瞬だけ、考えこむように視線を上げた。彼女の目を注視していなければ、あるいは気づかなかったであろう、ほんのわずかな一瞬の動きだった。
「わかりません」
 それは、ロボットとしては模範といえる回答だった。
「依代を疎ましく思ったりはしないの? あなたの仲間は随分とひどい仕打ちを受けているそうだけど」
 ロボットに愛情を抱く。そういった性的指向を持つ者もいる。だが、人と依代のつがいに比べても、その数はわずか。それが示唆しているかどうかは定かではないが、ロボットに対する扱いは、依代のそれよりも悪辣(あくらつ)なものだった。不法投棄は日常茶飯事。内部のパーツを取引する裏組織も、大きなところの名は一般常識とさえなっていた。政府の薄い保護も、ロボットには適用されなかった。
「依代は、たてまえは、人と同等の権利を持っている。でも、あなたにはそれがない」
「私には、集団という概念がありません。ですから、同じ型のロボットがたとえ破壊されたとしても、認知しようがありません。人は、赤の他人が死んだとして、悲しむことがあるのでしょうか」
「家族なら。それか、自分と近しい人が死んだなら」
 私は、両親の死を知ったとき涙を流さなかったことを思い出して、自嘲の笑みを浮かべた。
「あるいは、社会的に有名な人がなくなったとき。その人が、自分の中でどれだけの存在を占めるのかによるわね。身体の距離よりも、どれだけ心が近づけているかが、悲しむという情動の重要な因子なのよ。たとえ、片想いであってもね」
 アオイは、一ミリでも表情を変化させることはなかった。徹底した無表情で彼女は私を見つめていた。
 漆黒の瞳は、果てのない宇宙のように深く感じられ、吸い込まれそうなほどに綺麗だった。その視線を感じていると、ふとある情動に襲われた。
「アオイ……。郷愁って言葉、知ってる?」
「故郷を懐かしむ気持ち、でしょうか」
「もう一つあるわ。過去を懐かしむ気持ち」
 私が何を伝えたいのか、捉えかねたのか、アオイは口を閉ざした。私は机に突っ伏す。「おやすみ」と呟いて目を閉じた。しばらくして、身体は毛布の感触に包まれた。気配がなくなって、意識は深い闇の底に溶けていく。

     *

 それから一年、私には調べることはなくなっていた。数え切れないほどの仮説を立てては潰していき、ついに最後の確認をする時となった。月子が他の依代と違うことの証明。あまりにも簡単であっけない。これだけの回り道がばかばかしくなるほどに単純な。
 二度目の整備の際、身体の整備を終えると、一糸まとわぬ月子の頭部を開いた。様々な色に明滅する小さな箱。脳に寄生するかのよう張り付くそれを、私は取り外した。通常ならば、人口脳の深部まで繋がっているため、抜くにはロボットアーム並の力が必要となる。だが、魚を釣り上げるよりもたやすく、金属の箱を取り払うことができた。
 繋がっていたケーブルの先には、絶縁膜が張られていた。
 私は、とある論文――著者は暗殺され、論文は出回る前に発禁となっている。――にあった仮説を検証する。
 それは計器のケーブル、その連結部にあった。豆粒ほどのマイクロコンピュータ。プログラムは、指摘されていた通り、感情制御回路によって生じる、測定値ひずみを補正するものだった。ひずみが小さければ作動しないプログラムとなっていたため、月子の検診では気づけなかったというわけだ。
 もし他の依代で測定したとき、補正がなければ、いったいどれだけの影響が観測されたのか。私はそら恐ろしくなった。
 違法な改造による暴走を除けば、依代が起こした重犯罪は皆無だった。人は依代よりも下等とさげすむ声さえ出始めたくらいだ。では月子は……
 私は慌て、回路を月子の脳に再び取り付けた。
 この事実は誰にも漏らしてはならない。
 私の手で月子を守らなければ。
 整備の一連の過程を終え、月子は充電のために眠っていた。何度したって慣れそうにない。たどたどしい手つきで衣服を着せていく。早鐘を打つように、心臓の鼓動が激しい。
 ふいに、得体の知れぬ恐怖に襲われる。月子がどこか遠くに行ってしまうかもしれない。そんな幻想が浮かんだのだ。
「ごめんね……ごめんね、月子」
 それは、自然と口をついて出た言葉だった。
 私は、半裸の月子を強く抱いた。冷たい感触。でも、ここにいるのは間違いなく月子。
 愛おしさにかられ、
 その宝石にも勝る綺麗な唇に、
 自らの唇を近づける。
 触れる寸前……我に返り、顔を離した。
 私は、何をしようとしていた?
 頭の中が錯綜していた。この情動を、脳は上手く処理できていないようだった。
「月子……」
 ぼんやりと呟き、じっと、歳の違わぬ妹の、整った顔立ちを見つめていた。

 月子と暮らしたい。心の底からそう思った。今も同じ家に住んでいる。しかし、それだけでは足りない。同じ場所で働き、遊び……月子と一時も離れることのない、そんな未来を渇望するようになっていた。
 だが、私は月子に打ち明けることができなかった。月子が、職を変えることを果たして受け入れるかという不安も、もちろんあった。それ以上に、両親の死に対して涙を流さなかったことが、心の中に、しこりとなって存在していた。心は既に違っているのかもしれない。二人を繋ぐ糸はもう、切れてしまって、たぐり寄せることができなくなっているのかも……。
「手記はまだ書き続けられるのですね」
 整備の日から一週間がたとうというころ、変わらず夜更かしを続ける私に、アオイは言った。彼女は妙なところで察しがいい。私は意味もなく、新しい論文や図書の要旨を記録し続けていた。そこに脈絡がないことに、彼女は気づいたのだろう。
「あなたから声をかけるなんて、珍しいこともあるものね」
 アオイが逡巡しているように見えた。表情はまったくといって動じていない。ただの勘違いであろう。そんな思考をよそに、彼女は冷たい声で、なんの感情もこめない声で言った。
「月子さまが帰っておりません」
 私はアオイを振り返る。
「……現在地は?」
「携帯端末は、電源が切られているようです」
 椅子から飛び上がり、アオイの肩を乱暴に揺さぶった。
「切れた場所くらい分かるでしょう!」
「夕方ごろ、学校内から帰途につく途中に――」
 言い終わる前に、アオイを突き放し、学校に連絡を取る。電話は一瞬にして繋がった。
「月子先生……ええ、久世先生と一緒にあがりましたが。えっ、帰ってない? おかしいですねぇ、確かに――」
 これ以上情報は得られないと判断し、私は電話を一方的に切った。
 生存本能が暴走するかのごとく、正気を失っていた。月子を失ってしまうかもしれない。そんな恐怖が、身体の隅々まで染み渡っていくかのようだった。
 警察にも通報した。だが、対応した警官は、月子が依代と知ると態度を急変した。
「いずれ帰ってくるんじゃないですかねぇ。まったく、こんな時間まで遊ぶなんて。これだから依代は」
 別の地区の警察にも届け出た。どこも同じような対応だった。私は気づく。応対業務は人間が行うことが常だということに。これも、感情の制御が、依代が業務を行うことに支障をきたすため。
 人は、依代の隆盛を疎ましく思う。その怨嗟(えんさ)は、近年さらに高まりを見せていた。まる狂信者であるのを疑うほどに、異常な嫌悪だった。
 私は電話口から訴えることを諦めた。直接訪れるために、月子の身分を証明するカード、その控えを探すために、月子の部屋、そのドアを開けた。ためらったのは一瞬だった。気兼ねするおろかさを、今、身をもって味わっているのだ。
 整然とした部屋だった。余計なものといえば、子供の頃からずっとあった猫や犬などの、動物のぬいぐるみ。本は仕事上、必要最低限のものが本棚に並び、ブックエンドで倒れないようにしている。
 電灯を点ける。瞬時にして、月子の好きな、淡い橙色の光が部屋を包むように広がる。
 真っ先に目に飛び込んだのは、四角い卓子の上に置かれた封筒だった。見覚えがある。月子が依代となる前に受け取ったものだ。
「月子様は、その手紙を見せようか、見せるまいか、悩んでおられたようでした」
 後ろから、アオイの声が聞こえた。
「読んで……いいのかしら」
 私にその権利はあるのだろうか。
 月子を早く助けなければ。そんな焦燥感にかられながらも、手紙を手にとる。抗いがたい引力のようなものを感じたのだ。

 便箋を開く手は震えていた。
 カサと、どこか懐かしい紙のすれる音が響いた。
 手紙を読み終えたとき、私は慟哭していた。
 涙の粒がカーペットに淡い染みをつくった。
 月子をつくったのは、両親であった。
 私は、はじめて親の死に涙を流した。


     二

 私は夢を見る。いつもの眠りのとき。動力を供給する長い眠りのときにもである。すべての動作を停止しているのだから、その感覚は、死の際に走馬灯を見るようなものなのかもしれない。長い夢が圧縮されて、私の脳に蓄積される。思い出す際は解凍して、もとの映像データとして映じている。あくまでも推測の域を出ないが。
 夢には陽子の姿が映る。懐かしい記憶が、眠るたびに蘇る。そのたびに、郷愁のような気持ちが溢れてくる。起きた後、あのころのように、ずっと幼かった頃のように、陽子の傍にいつまでもいたいという情動に襲われる。
 私は既に答えを知っている。否、それが答えであると確信している。
 私は、依代としての月子は、両親のつくった、……違う、つくりなおした子どもだ。彼らが依代の感情部を司る技術を確立したと聞いたとき、あるいは気づいていたのかもしれない。認めるまで、それが確信に至るまでにはさらに時間を要したが。
 感情制御回路をつける際、なんらかの何らかの細工を施しているとしたら。私が他の依代と違うことを証明するには、たったひとつ、それを確かめるだけでよい。依代が依代たるゆえんは、彼らが人に虐げられ、差別される理由は、たったひとつの歪みがすべてなのである。
 陽子は二度目の整備の後、何かに気づいたようだった。たまに飲み物をいれて、彼女の部屋に入ることがある。彼女はその都度、書いている内容を隠す。だが、急に書き記す速度が落ちてきているのは、書いた厚みを定期的に見れば、測ることができる。
 もう隠す必要はない。陽子が話してくれるまで、待っていようかとも考えた。けれど、今のようなギクシャクとした関係に、もはや一刻も耐えられない段階まできていた。陽子も思い、悩んでいる。理由はそれだけで十分だった。
 なぜ道を違った、この単調な物語に身を投じたのだと、人は尋ねるだろう。
 二人は離れては生きていけない。陽子がいないと、私がいないと、二人はその存在の価値を逸する。互いを見失い、同時に、自らを認められなくなる。
 道を違ったのはその証明のため。そして、その公式は既に証明しつくされた。

     *

 陽子に手紙を見せよう。そう判断した朝。彼女はいつものように、早くに家を出ていった。誰もいない早朝が、調べものに適している時間だというのは、容易に想像ができた。
 一抹の寂しさを覚えながら、私の宛名だけ書かれた手紙を、机の引き出しの一番上から取り出した。忘れないよう、帰ったら真っ先に陽子に渡せるように、卓上に宝物を扱うみたいにそっと置いた。
 一人だけの、形だけの食事をとり、家を出る。
 空は焼けるように赤い。血を垂れ流しているのかと思うほどに、真紅に燃えていた。
 いつもと同じように子どもたちを教える一日が始まる。整備のすぐ後は、子どもらの反応も一段と良くなる。身体の動きが、ほんの微かに軽くなるのを感じる。それが本来の人の動きなのだろう。
 以前は、それを人との違いと取り、憂鬱な気持ちに苛(さいな)まれることもあった。いつだったろうか、春美が「人だって好不調はあるわ」と励ましてくれたのは。そのときから、私は依代であることが理由で、心を病むことをやめた。一年のうち、数回だけ深い眠りにつく。そんな特殊な体質をもつ存在だと思うようにした。
 放課後、子どもたちの声が校舎から消えていく。空は再び、朝に戻るかのように赤みを帯びていく。雑務をこなす教師のみが、大きな建物の住人となる。子どものいない校舎は、息を止めたように静かだった。今の時代、外で遊ぶ子は皆無に等しい。家に帰れば、娯楽は山と存在するからだ。
 作業が遅れ気味な私を、春美が手伝ってくれる。この学校には、女教師は私と彼女の二人しかいない。二人といっても、別段少ないというわけではない。子どもの数が加速度的に減っていけば、教員の数も、それに比例して少なくなっていく。一時は、職を失った教師がはじめた塾が乱立したこともあった。私と春美は、社会に荒波がたつ中、日ごと、助け合いながら仕事をこなしていった。
 しかし、この学校も、近々廃校となることが決まっている。よい機会だと思った。春美と別れるのは辛いこと。だけど、彼女が、「私たちはいつでも友達でしょう。どんな道を選んだとしても、ね」と言ってくれたから、覚悟がついた。
「お疲れ様」
 一番星が、ぼんやりと輝きだした頃、ようやく仕事は一段落がついた。私は春美の労いに、笑顔で「お疲れ様」と返す。
 教室にまだ生徒が残っていないか、戸締りをしながら校舎を見て回る。すべての教室を二人分かれて回り終え、私たちは駐車場に向かった。
 話を切り出したのは春美だった。
「ねえ、月子って依代なのよね」
 いつもの朗らかな笑みを浮かべ、春美は尋ねる。いつもの……。だけど私は、その質問自体に違和感を覚える。いままで依代に関する質問を、春美は一度もしたことがなかったからだ。それは、私の気持ちを慮(おもんぱか)ってのことだと理解していた。
「ええ、それが、どうかしたの?」
「あら、ごめんなさい。いきなりこんな話をされても困るわよね。もうすぐあなたは先生を辞めてしまうでしょう。だから、最後にあなたのことをちゃんと知っておきたいと思ったの。親友として、ね」
 最後にという言葉が引っかかったが、言葉のあやであると判断し、頷いた。いつまでも友達であると、彼女がいってくれたから、この仕事を離れる決心がついたのだから。
 月が雲に隠れた夜は、闇が隆盛を極め、街灯の灯りも心もとない。
 二つの靴音が、閑静な夜の空気の中を不気味に響く。春美はゆっくり、ゆっくりと歩く。歩幅も小さく、駐車場への道がひどく遠く思える。
「ねえ、あなたをつくったのって、だあれ?」
 街灯にぼんやりと照らされた春美の顔。厚い眼鏡の奥の瞳は、興味の色を浮かべているようにみえた。
「どこかの工場の誰かさんじゃないの」
 私は質問の意図がつかめず、あしらうようにそう答えた。それは明確な答えを持っている、私にしか答えられぬ問いだった。また言い知れぬ悪寒を覚える。
「どうして嘘をつくのかしら」
 春美の顔は、笑みを消していた。石の像のような無表情で、私の目へと視線を注いでいた。あまりにもじっと見つめるので、少しだけ視線をそらす。
「嘘も何も、どうしてそんなことを訊くの」
「月子は親友なのに答えてくれないのね」
 春美は心底残念そうに、溜息を吐いた。
「いいわ。あなたをつくったのは、秋津博士。あなたの両親。そうでしょう」
 なんで……知っているの?
 足が止まる。春美は振り返ると、なめるように私を観察する。
「ねえ、あなたが何者か、知りたくない? どうして他の依代と違うのか」
「……な、なんで春美に答えられるの」
「答えられるわよ。あなたをつくった人を殺した人から聞いたから」
「え…………」
 夜の静寂を、突如ひとつの靴音が切り裂く。
 木陰から出た影は、振り返る隙もなく、私のもとへと躍り出る。
 小さな子ども。
 タッタと地面を叩く音は、にわか雨ののように大きくなる。
 確か、春美が教えている生徒。
 思い至ったときには、彼の手に握られていたものが押し付けられていた。
 身体をまっすぐ針で貫かれるような感覚が襲う。
 スタンガンであると気づいたときには、意識は切れかけていた。
 倒れるとき、視界が黒く染まる前に、視界の端に春美が映る。あざけるような冷たい笑みを、彼女は浮かべていた。

     *

 身体が重い。意識を取り戻してからも、まるで海の底に沈められたような感覚が消えてくれない。
 重い瞼(まぶた)をこじあける。視界がぼけてよく見えなかった。だが、横長の椅子が縦に二列、規則正しく並んでいるのと、壁を彩るステンドグラスから、ここが教会であることは推測できた。
 視界は高い。手足は、巨大な十字架のような柱に、その先を固定されていた。
「あら、お目覚め?」
 声は下のほうから聞こえた。見下ろした時、ぼんやりとした視界は、すこしずつ鮮明さを取り戻し、そこにいるのが誰か選別できるほどに回復していた。
「春美……」
「その名前で呼ばないでくれるかしら。醜い依代さん」
 私は声を失う。春美の見慣れた優しい笑みは、跡形もなく消えていた。眉をひそめ、口は歪み、漂わせるはあらゆる負の感情。恨み、侮蔑、嫉妬……。
 なぜそんなことをするのか。尋ねるまでもなく、答えはその面立ちに現れていた。だが、あれだけ親身になってくれた彼女の変容ぶりだ。どうしても信じられようか。
「どうしてこんなことになったか。これからどんな仕打ちを受けるのか。気になるでしょうね」
「…………」
「教えてあげる。理由は簡単よ。あなたが依代だから。そして、あなたはこれから、本来の人の理に従うことになるの。正しい寿命までさかのぼることはできないけれど、早ければ早いほど、救われる見込みもあるかもしれないわ」
 春美の顔は醜く歪み、だが、声音は優しくなでるよう。その不協和に、私は身を震わせる。
「なんで、そんな憎しみをもったまま教師になれたっていうの」
「簡単なことよ。依代に好意的だっていう建前を見せてあげればよいだけなんですもの。ねえ、知ってる? 建前には、本音がつきまとうことを」
 嫣然(えんぜん)たる笑みで、彼女は私を見上げる。
「あなたを快く思っていない人は、いくらでもいたわ。陰で、散々に恨まれていたのを、あなたは見て見ぬふりをしただけ」
 私を支えてきたなにもかもが、彼女が言葉を紡ぐたびに、音を立てて崩れていくような気がした。両親、栄治は既にこの世になく、親友だった春美は、以前のような優しい笑みを浮かべてはくれない。かつて親身にしてくれていた彼女は、すべて嘘偽り。憎悪の下絵の上に、全く違う表情を塗り固めていたのだ。
 陽子に会いたい。
 すがることができる相手は、彼女の他にいなかった。
「どうして、依代を恨むの」
 問うと、春美はスラム街で行き倒れた死体でも見るかのような目をした。
「わからないの? それとも認めないつもり? あなたが生きている。それ自体が既に矛盾だってことを。死んだはずなのに。どうしてあなたはここにいるの? ものを考え、感情を抱く。いつまでそうしていられるかもわかる。あなたは人のまがい物なのよ」
「やめて!」
 手は封じられ、耳をふさぐことはできなかった。懇願の声を、春美は私の口に手を押し付けることで遮断する。
 知れず涙がこぼれる。その粒が春美の眼鏡を伝う。
「依代は、感情を制御されているそうね。だからこそ、人とかろうじての区別がついた。だけど、あならは違うみたい。本当に人間そっくりなのだもの。私よりも圧倒的にね」
 春美は厚い眼鏡を乱暴に外すと、私にかけさせた。否、かけるというより、取り付けるといったほうが正しいだろう。テンプルと先セルの間には細い針がつけられており、こめかみに刺さると一瞬鋭い痛みが走る。
 度は入っていないようだ。だが、裸眼で見ている風景とはあまりにも異なる視界に、私は戸惑う。見えるもの全てが、全く同じものと重なり合っているのだ。
「それが、私の見ている世界。とはいっても、あなたにはもとの世界も見えているのでしょうけど」
 春美の声が聞こえる。と同時に、視界に文字が走る。彼女の言葉のままに。

  今の私にはなあんにも見えない
  その眼鏡が 私の目なんですもの
  教えてあげる
  私は 視覚 聴覚 味覚 触覚 嗅覚
  そのどれも持っていないの

 流れる文字の色や大きさは一定ではなかった。声の抑揚と、感情を反映して、まるで生きているかのように姿を変えていく。
 春美は不意に上着を脱いだ。いままで彼女を覆っていた黒い偽りの肌。その内側がのぞく。
 彼女の肌は傷だらけだった。いくつもの細かい線が縦に横に走っている。かすり傷程度のものもあれば、縫わなければならないほどの深い傷まで、その数は計り知れない。
「それは……?」
 尋ねてから、春美には、今すべての声が通じないことに気づく。
「こんなに、こんなに痛みつけても、私の身体は悲鳴をあげてくれないの。暑さも寒さも感じない。だから傷を隠すのには都合がよかったわ。でも、想像がつくでしょう。熱中症で倒れることもあれば、凍死寸前になったこともあったわ。出血多量で運ばれることなんか日常茶飯事。
 あのお方が救ってくれなければ、依代の四分の一も生きられなかったでしょうね」
 『あのお方』というときだけ、流れる文字には、温かな灯火の色がともった。すぐにそれは氷のような冷たさを帯びた色に変わっていく。
 声が通じない今、口を挟むことは意味をなさなかった。
「私にないものを、あなたはすべて持っている。人が享受すべきすべてを、あなたは、とっくに灰になっているはずなのに握っている。あまつさえ、人の感情までも」

  あなたはあらゆる面で異端
  だから ここにいてはいけない

 視界一杯が青い炎で埋め尽くされる。そして、漆黒の夜に包まれる。これまで感じたことのない恐怖を覚える。私は悟った。彼女の抱く感情が殺意であることを。
 ちくりと即頭部が痛む。春美が私のかけていた眼鏡を外したのだ。
「どう、お気に召したかしら。人の心を覗けるのよ。素敵な道具だと思わない? それで、人と依代が並んでいるのを見れば、すぐにどちらかわかっちゃうの。だって一方は負の感情を隠しちゃうのだから
 知っている? たくさんの幸せのあとに、一つでも不幸なことが起こったら、人は不幸を強く印象に残してしまう。子どもは特にその傾向が強いわ。たくさんのプレゼントをもらって、遊園地に家族で出かけて大喜び。だけど最後のパーティでおっちょこちょいなお母さんがケーキを落っことしてしまう。子どもはどうなると思う? 泣くでしょうね。その日を不幸な日と塗り替えてしまうでしょうね。
 子どもは不幸に敏感なの。そして、人は負の感情を抱くって知っている。そんな子どもたちを、どうして依代が教えることができるの?」
「……なんで、今まで……」
 依代であると、異端な存在であると知りながら、なぜ友人として振舞えたというのだ。尋ねようとしたが、私は閉口する。春美が祭壇の下、死角になっていた場所にあったものを手に取ったからだ。白銀の刃が連なるそれは、チェーンソーだった。
 耳障りな、甲高いノイズが響く。
「いいわね、その顔。もっとよぉく見せて。幸せが不幸に染め上げられていく。その落差だけ、苦しみへと転移していく。今まで、待ったかいがあったわ」
 彼女が何をしようとしているのかを察し、私は悲鳴をあげた。
 声は届かない。
 じらすように、春美は、徐々に鋸刃を左足の付け根に近づけていく。
 かつての親友は、絶望に歪む私の顔を、歓声をあげ楽しそうに見つめていた。
 肌に刃が触れる。
 痛覚が叫び声をあげる。早く離れろと、身体中にに信号を送る。だが、人の手に握られた、自動鋸(のこぎり)は、容赦なく私の足の付け根を分離していく。
 血液がこぼれることはない。細い、人工の配線が、ぶちぶちと音をたてて切れていく。
 人はこういうときに、意識を失うのだろうか。そうなったら、どんなに楽だったか。人工の脳は、処理できない痛みを、熱として排出する。いかに痛烈な刺激であろうと、微弱な電気信号にすぎない。
 身体中にしびれるような感覚が残った。私は声を失っていた。ただ、身体の一部を喪失する感覚のみがあった。
 春美の表情は快楽に支配されていた。人と異にする面を拝めたことに、喜悦(きえつ)を覚えたのかもしれない。何か叫んでいるようにみえたが、聞き取る余裕はなかった。
 まるで最初からそういったオブジェがあったかのように、左足は既に私の一部ではなくなっていた。
 子どもがはしゃぐみたいに、春美は嬉々として、次に右手の切断に取り掛かる。慣れてしまったのか、痛みを感じるのを脳が拒絶しているのか、感じるのはただ失っていくという実感のみだった。
 次々と、刃は私を解体していく。右足を失い、片手のみを支えに宙にぶら下がる。最後に残った左手も止め具にひとりぼっちとなる。
 四肢をはぎとられた私は、地面にボトリと音をたてて転がった。まるで子どものいたずらにあった人形みたいに。
「つまらない。もう、あの綺麗な声を聞かせてくれないのね」
 春美は残念そうに呟いた。
 私は心の中で一人の姿を思い浮かべていた。かすむ視界の中に、彼女の姿を、陽子の姿を探し続けた。陽子、陽子と、名前を呼び続けた。
「あなたも、私と同じような世界を味わってみる?」
 艶(あで)やかな声で春美が問いかける。チェーンソーを床に投げ捨て、代わりに彼女が手にしたのは、二つの細く長い針。
 それが五感を奪い取る道具だと気づいたのは、春美が視界から消え、突如耳に鋭い痛みが走ったときだった。両の耳の聴神経を切断され、世界から音が消えた。
 陽子の声が聞けなくなる。私は涙をこぼしていた。
 二本の針が目の前に迫る。銀色に光る二つの目が私を見つめている。
 ためらうことなく、春美は針を突き刺した。こんなにもあっけなく、私から光を奪っていく。
 痛烈な刺激に、叫び声すらあげることができない。
 視界は細い雨のようなノイズで埋め尽くされていく。
 徐々に、闇に閉ざされていく。
 そのなかで、最後に見たのは鮮やかな赤い噴水だった。
 すがるように、春美が私の胸に身体を預け、沈んでいった。
 彼女の吐息、鼓動は、僅かにすら感じられなかった。

 色のない、音のない、虚無の世界に閉じ込められる。
 かすかに、誰かのいる気配を感じ取れた。。視覚と聴覚を失った分、他の感覚がそれを補おうとしているのだろうか。床を伝う微弱な振動、空気の流れの微かな変動が、誰かが近づいていることを教えてくれた。
「だれなの?」
 上手く発音できているか不安だった。それに尋ねてから、私には返答を聞く術がないと思い立った。
 気配はゆっくりと近づく。陽子ではない。陽子であるなら、五感のすべてを奪われても感じ取ってみせる。それに、かの人物は春美を撃ったのだ。
 光を失う前、春美の頭部を銃弾が貫いた。視界を最後に埋めた紅のカーテンが、忘れなかった。もう、生きてはいまい。
 私は静かに待った。不安でないといえば嘘となる。身体の大部分を失った心細さも手伝い、泣き出しそうなほどに恐れていた。
 気配は足を止めた。これから私の息の根を完全に止めるのか。私はまぶたを閉じた。暗黒の世界は変わることなく視界に座する。そのことが不思議に思えた。
 と、なにかが耳にかけられる気配がした。頭の後ろの部分がちくりと痛む。すると、世界が瞬時にして晴れ渡る。教会の全容、春美の骸(むくろ)が視界に入った。そして、見知らぬ誰かの足。宣教師の衣装に身を包んでいる。
 視線を転じようとしたが、春美の眼鏡にはそういった機能まではないらしく、顔を上げるしかなかった。酷く苦しい体制から、なんとか覗く。そこに映った人物。私は彼を知っている。
〈元道……〉
 私の声は文字となり、深い青の光を帯びていた。知らずのうちに、憎しみを込めて呼んでいたのだ。
 彼は確かに元道だった。だが、テレビで見知った姿とは、あまりにもかけ離れている。やせ衰え、威厳の欠片さえも感じられない。
〈君が、秋津の娘か。……案ずるな。既に銃は捨てた〉
 元道の声には色がなかった。洋画の字幕のように、淡々と文字が連ねられていく。
 彼が見やったほうへ視線を転ずると、春美の命を奪ったものが転がっていた。しかし、それで緊張を解くわけにはいかなかった。私は動くことができない。感情を隠すものの真意がつかめぬというのに、どうして信用できるというのだろうか。
〈私はただ話したいだけなのだよ〉元道はいう。〈既にこの場所は割れている。逃げる気もない。最後に君に会いたかった。ただ、それだけの理由だ。すこし乱暴な手段だったことは謝らねばならない。そのような姿にしてしまったこと、許してもらえるとは到底思ってはいない〉
〈何を話したいっていうの?〉
 元道の声が感情を帯びていないのに対し、私の言葉は、口から飛び出すたびに、暗い海をつくりだしていく。
〈君の父のことだ。まずは謝らねばならないな。彼の命を失わせてしまったことを〉
 なぜ、彼はそんなにも平然と語ることができるのだろうか。感情を隠すような手術を施しているのだろう。だけど、こんなときくらいには、顔をしかめるくらいしてほしかった。
〈どうして、私は親を失わなければならなかったの。ねぇ、どうして……〉
 彼に詰め寄ろうとしたが、息をする人形と化した私には、視線を尖らせるより他なかった。
〈彼の思想があまりにも危険と感じたからだ。彼は完全なる人をつくろうとしていた。生殖機能までは、さすがに真似できなかったらしいが、機械によって人を創造しようとしていた。彼は最後にいったよ。『人はいずれ忘れ去られる。それはすなわち、完全なる死だ』と。人が滅びることを彼は予見していた。私も、そのことに異存はない。
 私は恐れを抱いたのだよ。二つの未来を秤(はかり)にかけた。人が滅び、機械もやがて止まる、記憶すら完全に失われる未来。そして、人はおらずとも、生きた証を紡ぐ存在のいる世界とを、だ。
 完全なる死が、私の望みであった。だが、今は忘却への恐れが私の胸の内を占めている〉
 元道は、父より、人の記憶を保存するための設計図を見つけた。それはつくりかけだったという。
 後の話を聞いている間、しこりのような違和感を私は抱いた。欠けてはいけないはずの要素が、元道の話からは抜け落ちている。
〈どうして、先から父のことばかり言っているの。あなたは、私の両親、二人とも殺したのでしょう!〉
 鼓動の高鳴りを抑えることができず、放たれた言葉には怒りと怨嗟(えんさ)の炎が宿っていた。
 意に反し、元道の言葉は、色があれば困惑をにじませていたであろうものだった。
〈君は、もしや知らされていないのか。君の母は、私が秋津博士と最後に会ったとき、既にいなかった。彼は、三年前には妻は亡くなっていたと語っていた。マスメディアはこぞて変調した報道をしていたから、何らかの情報操作が行われたとは考えたが。君にすら伝えていないとは……いや、あるいは〉
〈何か、理由を知っているの!?〉
 私は身を乗り出そうとした。もちろん、転げそうになるだけで、身体を失った実感が湧き、歯噛みする。
〈秋津は、人の感情を模したロボットを作り出そうとしていた。それまでは、元の脳から直接情報を写してやらねばならんかった。依代だよ。それを、人の手で完全に再現しようとした。とはいえ、そこにはモデルが存在する。彼は試作段階ではあるが、既に一体つくりあげていた。私はようやく得心がいったよ。
 君の家にいる、アオイというロボットだ〉

 アオイは君の母を模したロボットなのだよ

 淡々と、文字が視界横切っていく。元道は続けて語る。
〈はじめは信じることができなかった。あまりに巧妙に隠されていたからな。傍から見れば、ただのロボット以外の何者でもない。彼女はまだ、眠っている。眠りを覚ます術を君たち姉妹は握っているはずだ。秋津は言っていたよ。『私がおらずとも、娘たちが未来をつくりだしてくれる』とね〉
 もしかしたら……。私はひとつの可能性を思い至った。いや、それ以外に考えられない。両親との、ただひとつの接点。
〈さて、そろそろ迎えがくることだろう。君には聞こえないだろうが、外が騒がしくなってきた〉元道は相変わらずの無表情で、言葉を紡ぐ。どこか憂いを帯びているように見えるのは、気のせいだろうか。〈はじめは、君たち依代に対して、嫌悪しか抱くことはなかった。だが、今は、君たちがどのような未来を描き出すのか、興味津々なのだよ。くく、私も君の父に毒されてしまったのかもしれないな〉
〈父だけではありませんよ〉憎しみの色は、幾分か薄れていた。到底消えてはくれなそうだったが。
〈祖父が、あなたに伝えてくれと言っていました。人が生き続けるためには『誰かが記憶を引き継いでくれればよい』と〉
〈そうか。先生が……。そうか……〉
 元道の目には泉ができていた。あふれた涙は雫となってぽとりと落ちた。
 話が終わるのを待っていたかのように、教会の扉が開かれる。波が押し寄せるように、警官が押し寄せる。
 怒号で視界が赤く染まる。扉の外の民衆のものであろう。
 その中で、元道の声だけが、白く浮き上がった。何かを警官に告げたらしい。詳しい内容までは読み取れなかった。
 外に連れられていった彼は、メディアの視線の集まるなか、彼の集めた団体の解散宣言をしたのだと、後の話で知ることとなる。
 このとき、私は彼の行動など頭になかった。今にも壊れそうな、涙に目をにじませた人が、教会の入口に立っていたのだ。
〈陽子……〉
 今にも駆け出したかった。しかし、私にその術はない。かわりに、陽子が駆け寄って、優しく、私の小さくなってしまった身体を抱き締めてくれた。
〈ごめん。ごめんね。私が遅れちゃったせいで、こんな……。絶対直してあげるから。お父さんやお母さんにはとっても敵わないかもしれない。でも、〉
〈うん。……わかってる。陽子はとても優秀な整備師だから〉
 誰も帯びることのできない、太陽のようにあたたかな言葉。
 いろいろ伝えたいことがあったけれど、今はこうして、彼女の温もりを、鼓動を感じられれば、それでよかった。
〈こんな、頼りないお姉ちゃんでごめんね〉
〈そんなことないわよ。ここまできてくれた〉
 陽子の涙の粒は大きくて、ほんのりと冷たかった。


     幕間

 一年三ヶ月前

 元道が秋津博士の研究所を訪れたとき、既に彼の妻である秋津愛(めぐみ)の姿はなかった。否、他の職員の姿も、間断なく積まれた機器類さえも。
 暗く、殺風景な屋内のなか、秋津は微笑みを浮かべ待っていた。まるで、旧来の友と再会したかのような、屈託のない笑みだった。
 彼の傍には一体のロボットがいた。椅子に座った秋津ほどの身長しかなく、体躯も人型ではあるが、配線がむき出しになっており、およそ今の時代のロボットに似つかわしくなかった。
「やあ、元道君か。会いたかったよ。待っていた。秋津の名を聞き、ここにきたのだろう。ならば私の紹介は不要だろうね」
 彼は傍らのロボットの頭を叩き、「ほら、ちゃんと自己紹介しないと」といった。
 ロボットは反応しない。元道は新種の兵器かなにかかと疑い、寡黙な機械を注視する。懐に忍ばせた銃。取り出し発砲するまで、一秒足らず。最新の武器を手にしていることを、よもや秋津が予期していないことはあるまい。
「ごめんね。この子、極度の人見知りでね。いやはや、恥ずかしいね。この子も私だというのに」
「どういうことだ」
 元道が冷めた口調で問う。秋津は見るものが見れば、人をバカにしているかのようにたられる笑みを浮かべたままに言う。
「どういうことだっていわれても困るなぁ。言い方を変えなければ伝わらないのかい。ここに私が二人いるということだよ。この子は、私の分身だ。だから仕事がとてもはかどるんだ。もっとも、一人分の成果なんていったら、訝られるだろうから、愛の名を貸してもらったのだけれどね」
「そいつは、お前の脳ということか」
「ご名答」
「……秋津愛は」
 秋津は肩をすくめる。
「そんな恐い顔しないでよ。君は感情を隠しているようだけど、感情を抱かないというわけではないのだろう。表情の補正のための人工の頭皮か。君のお仲間達に威厳を示すためには、一役買っただろうね」
「…………」
「やれやれ。もっと楽しく語り合おうよ。ふふ、そんな無粋な顔をしないでさ」彼は溜息とつき、「言わないと許してくれそうにないなぁ。じゃあ、教えてあげるよ。多分君は勘違いしている。愛は死んではいないよ。生きている。もっとも、肉体は既にないけどね。かつて愛として動いていた箱は灰となった」
「依代か」
「違う。検討外れだ。全く違うよ、元道君。見てみたまえ。答えはここにあるじゃないか。私は今、二人いるのだよ。愛が二人いることのどこに不思議があるんだい?」
 秋津は興味深そうな目で元道を見つめる。心の深淵を覗かれる感覚に、元道は不快という感情を抱いていた。
「私には、人を不快にさせる才能でもあるのかな。こんな話好きのせいか、仲間はいつの間にかいなくなってしまったよ」
 本当にそうだろうか。機器までも、すべてみすみす持っていかせたというのか。嘘が混じっているように思えてならない。元道は、秋津の口から語られるのを待った。彼は、既に隠すことをやめている。全てをあきらめている。その理由を聞き出すまでは、この幕を降ろすわけにはいかない。
「信じていないって顔だね。うん、それで正しいよ。私は二つ嘘をついた。まずは君の疑ったとおりだ。人を払ったのは私の最期を演出するためだ。それだけのためだよ。予見しておく。君は私を殺すことはできない。寿命を縮めることはできるよ。肉体的な死を与えることは可能さ。でも、そんなことをする必要もない。私はもうすぐ、この世を見る目を失うのだからね。だけど、死ぬことはない。記憶の中に生き続けるからだ。そのための演出はもう用意してある。
 『embryo』だ」
「embryo?」
「そう。萌芽、そして始まり。人に代わる新たな世界の鍵だ。その世界で、私たちは記憶の中に息をすることとなる」
 彼の話から、大方どのような話かは想像がついた。
 彼が開発しようとしているのは、ELTのε型ということであろう。
「私はね、忘れられるのが恐いのだよ。君だってそうだろう。誰だってそうさ。なんでそう思うんだろうね。単純なことだよ。人は生きたいって願うだろう。裏返せば、それは、覚えられたいという欲求なんだよ。何もこの世界に恵みをもたらすことなく、単なる凡人として生をまっとうしてさ、何が嬉しいんだい。すぐに忘れ去られてしまう。この世から、存在が完全に抹消されるのだよ。これ以上恐ろしいことってあるかい?」
 彼は物語を読み聞かせるかのごとく、歌うように言葉を紡いでいった。
 彼は語っていた。スピーチの場はオペラの舞台と同じであると。
「これは二つ目の嘘とも関係する。実はね、愛はこの世にはいないんだ。厳密に言うとだよ。眠っているといったほうが正しいかな。embryoの存在を隠すためにね。彼女は感情を眠らせ、また、埋め込んだ記憶も封じてある」
「感情を持つロボットを創った……だと」
「うん? やはり、そこが気になるのかい。でも不思議なことではないだろう。君は、依代がγ型からδ型に変遷するとき、なにが起こったか知っているかい」
「感情制御の改良ではなかったのか」
 元道は、秋津が、誰も知りえぬ秘密をいくつも握っていることを悟った。そのために、いままで知られてき常識の全てが、偽りに思えるようになっていた。
「一般にはそのようにいわれているね。だけど大嘘だよ。あれは、単に脳を人工のものにしただけさ。そこに人の脳の活動パターン、成長パターン、それに感情パターンを埋め込んでやる。感情制御の改良は、その変更にあわせるための、微調整にすぎない。ねえ、元道君。ここまでできているのに、感情を持つロボットの構成が不可能かと思うかい。
 そうだ、もうひとつ。感情制御は、私にとって望まない技術であった。でも、それがあったからこそできたこともあった。依代の活動データの取得だよ。それを集めたものが、記憶を紡ぐための種となるのさ。芽吹くかどうかは、いささか運の要素も絡むんだけどね」
「貴様は……」
 元道は銃口を向ける。秋津の傍のロボットは動く気配を見せない。
「そこで撃ってどうなる? 私は生命活動を止めるだろう。だけど、君の頭の中に生き続ける。その記憶が引き継がれなければ、それで終わりだ」
 秋津は、自嘲するように笑い、いう。
「人はやがて、この世界からいなくなるよ。肉体としての人はね。さらに、伝えるものの存在を否定すれば、人は完全に死滅する。その存在があったことさえも。当然さ。観測者がいなくて、どうして人がいたと証明できるんだい。そんな未来を、人はどうして選ぶのかな」
 ああ、彼は恐れているのだ。一切顔にはにじませないが、忘れ去られた未来を思い浮かべ、心細さに胸を痛めているのだ。
 元道の持つ銃が震える。秋津の恐怖が伝染したのかもしれない。
「決めるのは君であり、私の子どもたちでもある。私にはもう、次の世界を創り上げるほどの創作意欲は残ってないんだよ。ふふ……こうやって命を絶ってしまうほどにね」
 秋津の口の端から、血液のすじが垂れていた。目の焦点はあっておらず、声もかすれていた。
「最後に、……娘たちの顔を……見たかった。……ふふ、わがままかな、これは」
 秋津は頭を垂れた。深い深い眠りへと落ちたのだ。
「わがままではないさ。決して」
 娘を見たいと願いながら死を選ぶ、秋津の胸中を元道は思考した。
 すぐに理由は思い至った。彼には依代の娘がひとりいる。彼女もデータ収集の一貫であるとしたら、どうして顔を合わせることができようか。
 息を止めた秋津に向け、元道は引き金を引いた。
「泥をかぶるのは、私だけでいい」
 殺人の罪という皮をかぶり、元道は、静寂に沈んだ研究所をあとにした。




 萌芽

     零

 月子への手紙が海を越え届くころ、既に秋津愛(めぐみ)の死は予見されていた。病に伏し、自らの職を全うすることは叶わぬ定めであった。それでも、全身が麻痺(まひ)してもなお、月子の依代製作には最後まで関わり続けた。彼女の知見は、夫のそれより優れていた。愛の尽力なくして、秋津博士の成功はなかった。
 愛は世に顔を出すことを頑なに拒んだ。自らが、いずれこの世を去ることを知ってからは、専ら影で働くことを望んだ。秋津の姓を得、秋津博士こと学(まなぶ)を支えることに、生を全うした。
 月子にあてた手紙の最後は、辞世の句とも読める。

  さようなら。
  あなたは私の中に。
  私はあなたの中に。

 この言葉をはじめて目にしたとき、月子はその意味を判じかねた。述部を補うならば、「――生きる。」と続くのであろう。月子の中に母が生きる。これではまるで、死を前にした人の言葉ではないか。
 陽子に見せれば、おそらく同じ感想を抱き、母の死を知るに違いない。知らず知らずのうちに、見せぬようにしていた。隠匿(いんとく)の檻に自らを閉じ込めたのだ。
 だが、両親の死が報ぜられた。隠すことに、既に意味はなくなっていた。

     *

 秋津学は、一枚の手紙を虚構で埋めた。両親からの手紙であると、アオイは純粋なロボットであると偽った。お前たちの母も健全であると、仕事が一段落ついたら、戻ってくると嘘を並べた。
 その中に、たった一つだけの真実を織り交ぜて。

  さようなら。
  月子の中にアオイの種がある。
  起こすも眠らしておくも、お前たち次第だ。

 二枚の手紙は、秋津夫妻が意図したとおり、しばらくの間、互いの目に触れることはなかった。もっとも、真相が明かされる以前に、秘められた意味を理解することはなかったであろうが。
 今、すべての偽りの霧は晴れ、無数の道が示された。
 感情制御の裏で集められた思考パターンは、新たな人を生む種となる。芽は既に顔を出そうとしている。


     一

 人が、初めてこの世界に二本の足で立ったときから、どれくらいの時が経ったのだろうか。数百万年前、最古の人類といわれるアウストラロピテクスが存在したといわれている。はじめての文明ができてからは、一万年も経っていない。地球史、否、生命史から比べても、なんと短命なことか。今、人の社会は崩落しようとしている。
 過去の人口爆発が嘘のように、世界の人口は激減していた。発展が一瞬であったとするならば、衰退もまた同じ。一部の国は依代のおかげでなんとか国家機能を維持しているものの、依代の存在を拒んだ国の末路はひどいものだった。国家の中枢を担うはずの人々が次々と亡くなっていったのだ。
 依代の必要性を説く人々による反乱によって、いくつかの国は生存権保護法を制定した。一部の国では、紛争にまで発展した。各地に飛び火し、国連の手にはもはや負えなかった。自然鎮火を待つしかあるまい、という意見が大勢であった。すなわち、国が滅ぶのを黙ってみているというのである。
 ウィルスが人工のものであるとわかったのは、つい最近のこと。遺伝子操作された大量の種のウィルスに、ワクチンの製造など間に合うわけはなかったというわけだ。犯人はまだ捕まっていない。今も、何らかのシステムに従って、ウィルスは子供らの命を奪うべく散布されている。
 だが、この人為的な大量殺人は、話の本筋ではない。人の命脈がかくも簡単に切れてしまうことの証明でしかない。

 私たちの物語へと戻ろう。

     *

 月子が連れ去られた事件。あれから私は月子の身体を修復する日々に明け暮れていた。もう一月も経ってしまった。なのに、月子の四肢は何一つ治らず、視覚、聴覚もそのまま。月子は分厚い眼鏡をかけ、その効果によって話すことはできた。切断され、むき出しになった人工血管を見るたびに、自分の無力感を実感する。
「あせらなくていいの。私はずっと待っているから」
 ずっと待っている。月子はまじないのように、そう何度も言った。そのたびに力が抜け、作業に集中することができた。相手が月子でなければ、とうにミスを繰り返していたところだ。
 職を手放すことにためらいはなかった。収入は、他のロボットの不定期の検査に限られた。だが、お金に困ることはなかった。両親が残した莫大な遺産をつぎ込み材料の糧とした。
 四肢の骨組みができたのは、さらに二月が経った後。代えのボディはなく、切り取られた四肢は思ったよりも損傷が激しく、使い物にならなかった。一から作り直す他なかった。途方のない作業に、何度も挫折しそうになったものだ。
 一時は、他の業者に協力を仰ごうかともの考えた。しかし、月子が異端の存在であると判明してしまったら……。詳しく調べようと思えば、思考プログラムを覗くのはたやすい。感情制御回路がないとわかれば、今の法では廃棄される。
 そのことを考えると、他の業者に整備を任せていた頃が恐ろしく思える。いつばれるかわからなかったのだから。

 それからさらに八ヶ月を経て、ようやく四肢ができあがった。あの日からもうすぐ一年。時は知らずの間に過ぎ去っていく。気がつけば私たちは齢四十。過ぎ去った時間を思うと、空恐ろしくなる。だが、後悔はしていない。すべては月子のために費やした時間。一番大切な人に尽くした時間であるのだから。あるいは、それは単なる自己満足に過ぎないのかもしれないけど。
 かくして月子は復職した。未だ視覚、聴覚は戻っていないが、春美の眼鏡があれば、意思疎通に困ることはない。四肢を先に治してほしいと頼んだのは月子だった。
 彼女はまるで形見のように、眼鏡を大切に扱った。なぜ、身体を奪った人のものに……。尋ねると、月子は微笑んで、
「私の友達のものだから」
と言った。
 眼球はいくつもスペアが存在したため、すぐに代えが用意できた。だが、月子は聴覚が戻るまでは眼鏡越しの世界で良いと言った。
「感情が見えるから?」
 私が冗談半分で言うと、
「その機能は切っているわ。ただ……、まだ、信じたくないだけ。受け入れられないだけ」
 月子が春美のことをいっているのだと察し、口を噤(つぐ)む。胸のうちでくすぶる感情。これは嫉妬だろうか。
 私は言い出せなくなってしまった。月子といつまでも一緒にいたいと。


     二

 人は依代へと変わっていく。とはいえ、依代とて命は有限。少しずつ、だが確実に人はこの世から消え去っていく。
 都市機能を維持するには、ロボットの手を借りるしかなかった。すべてを自動化してしまうしか、この整然とした街並みを保存するには、方法がなかった。必然、そこに発展はない。すべてを自動にすることは、果てない停滞を意味する。人の手が加わらなくなればなるほどに、技術の水準は収束へと向かう。否、いずれは衰退の道を辿るであろう。整備のほころび、劣化の修繕には人の手を介在させなければならないからだ。人が存在し続ける限り、一応の司令塔は人である。意志を持たぬロボットに、全都市機能のブレインとなるほどの性能は備わっていない。
 だが、元道は言った。感情を持つロボットがいると。そして、それはすぐ身近にいる。家族同然の存在となったアオイであると。
『アオイは君の母を模したロボットなのだよ』
 警察に捕らえられ、人の平均寿命をはるかに超える刑期を宣告された彼は語った。
『限りを覚ます術を君たち姉妹は握っているはずだ』とも。
 アオイと直接関わったことがさほどない私にとっては、それは雲をつかむような話だった。陽子にも話していない。私を直すことに必死であったのが、声の色から覗けたからだ。眼鏡の機能を切っていたというのは嘘だった。切ることなど、はじめからできなかった。だから、陽子が、私が春美を想う言葉に対し、嫉妬の念を抱いているのも明らかだった。
 そんな想いを抱く必要はないのに。私がいつも考えているのは陽子のことなのだから。恥ずかしくて口にすることはできなかったけれど。
 身体がもとに戻ったら……。陽子と話すべきことは溢れるくらいたくさんあった。だけど、その前に、私には終わらせなければならない仕事がある。

     *

 復職し、再び教壇に立った私を、一年歳をとった生徒たちは快く迎え入れてくれた。先生方も、私が戻ってくることを歓迎した。携えた笑顔は、決して建前のものではなかった。
「二人も穴が開いてしまって、大変だったんだよ。他の学校も人手不足だからね」と、校長が薄い頭髪の上を、ぽりぽりとかく。「私も久しぶりに子供たちに教えたりしてね。君が戻ってきてくれて助かったよ。月子先生はどこですかと、迫られてかなわんかった。本当のことをいって、お見舞いにでも行かせてしまったら、その……怪我をしている君を見せてしまうことになる」
 流れてくる言葉は、温かな灯火の色を帯びていた。詮索(せんさく)するようですこし罪悪感に苛(さいな)まれる。だけど、これまでの態度が決して嘘ではないとわかり、私は頬を緩めることができた。
「とはいっても、もうじきこの学校もなくなってしまうがの」
 窓の外をぼんやりとした目で眺め、彼は言った。その目は、もう見ることのない桜の花を思い浮かべているのだろうか。
「君の話は聞いているよ。災難だったね。君を襲った生徒は、前に解散した教団の一員だったそうだ。今は、少年院に入っている」
「ありがとうございます。また、受け入れてもらって」
「気にせんでええわい。先生は生徒たちのためにいる。子供たちの未来を創りあげるためにの。それだけ、心に留めておいてもらえれば、それでかまわんよ」

 私の担当していたクラス――といっても、人数が少ないため、四から六年の高学年の合同クラスだった――の生徒は、皆、一年歳をとり、それだけでも随分と大人びて見えた。中には、低学級を終えたばかりの、はじめて見る顔もある。
「月子先生だ」
「おかえりなさい!」
「死んじゃったかと思ってた」
「勝手にころしちゃだめでしょ」
 教室に入るや否や、押しかける子あり、泣きじゃくる子ありでてんやわんやの大騒ぎ。懐かしい思いにかられながら、「ただいま」と声をかけた。少しかすれてたかしら。
「あれぇ、先生、ハルミ先生のかっこしてるよ」
 言ったのは、低学年からあがってきた子だった。春美は低学年のクラスを担当していたのだった。
「すこしだけ目が悪くなっちゃってね。でも、もうじきとれるよ」
「メガネかけてる先生もすてきかも」
 六年生になった女の子がつぶやく。
「たしかに、先生ぽくなった気が」
「ほら、席に座りなさい。授業をはじめるわよ」
 教室が朗らかな笑い声に包まれる。瞬間、私は深い郷愁に襲われる。想いが顔にでたのか、
「先生、悲しいことがあったの?」
 子供たちの表情はころころと変わる。伝染した不安をたたえた目が、向けられる。できるかぎり顔を崩して、私は笑って見せた。
「違うわよ。みんなを教えられることが、嬉しいの」
 今まで、季節のことなど、ここまで気にすることはなかった。校庭では、紅葉した葉が、風に揺られてひらひら踊っている。
 学校は、今年度いっぱいで廃校になることが決まっている。

 大切なその日までに、陽子は私の光と音を取り戻してくれた。
 陽子の声が聞こえる。心よりの愛情をこめた声。どんな花より、どんな宝石よりも美しい色を帯びた声。もう、その優しい色彩は見れないのかと思うと、すこし寂しい気もする。
 眼鏡を外し、私の目で見た世界は、より澄み渡って見えた。窓から差し込む朝日が、こんなにもまぶしかったなんて。
「残念。眼鏡をかけた月子も可愛かったのに」
「今度、もっとおしゃれな伊達眼鏡でも買ってくるわよ。陽子とおそろいでね」
「それ、いいかも」
 春美の眼鏡は、大切に保管していくつもりだ。彼女の形見として。たとえ、恨まれていたとしても、親友として過ごした日々に偽りはない。私は楽天家なのかもしれない。
「ねえ、陽子。話したいことがあるの。たくさん。抱えきれないくらいに」
「ええ」
「私、教職を辞めるつもり」
 陽子は声をあげて驚く。
「どうして!? せっかく、復職までしたのに」
「それは……最後に子供たちの笑顔が見たかっただけよ。純粋な人の心を持つみんなと、話がしたかったの」
「月子の心だって……穢(けが)れてなんていないわ」
 陽子の抱擁(ほうよう)は、とても優しくてあたたかい。大好きな陽子が、こんなにも近くにいてくれる。
「そういうことじゃないのよ。心って、ひとつとして同じものはないじゃない。私と月子だって。おんなじ花でも、大きさや形が違うように。でも、今はほとんどの心が枯れかけてしまっている。私は、最後まで水をやりつづける責任があるの」
 歳の違わぬ姉の額に、そっと口付けをする。
「私は、幸せものね。本当に……」
 ボソリとつぶやく私に、なんて言ったの、と彼女は尋ねる。
「なんでもないわ」
 彼女のぬくもりを、私は惜しむようにしばらく感じていた。

 最後の授業がはじまる。卒業式の前、特別に時間を用意してもらった。既に卒業してしまった子供たちも招いたため、教室は久しぶりにいっぱいに埋まった。
 進学した子たちのうち数人は、依代となっていた。私はやりきれない思いにかられる。
 中学生の代表が指示し、起立、礼。この光景を見るのも最後になる。卒業式で散々泣いてかっこわるいところを見せたのに、また、熱いものがこみ上げてきそうになる。
「おはようございます。集まってくれてありあとう。今日は、みんなに教えたいことをいくつか話したいと思います。本当は、この時間では話しきれないほど、たくさんあるのですが。辞めたとしても、みなさんの教師であることは変わりません。ですから、いつでも訪ねにきてくださいね。
 今日の授業は、いつもとはちょっと難しい話になるかもしれません。でも、考える価値のある問題だと思いますから、積極的に発言してください」
 授業は対談の形で進めることにした。普段は短い時間で、決められたことを教えるので精一杯だった。だけど、今日は校則に縛られない授業だ。チャイムが鳴ることはない。
 子供たちが神妙にうなずくのを確認してから、ひとつめの問いを口にする。
「この国では、大人になったら働かなくてはならないことになっています。これは、社会の授業を受けたなら、わかるはずよね。では、なぜ人は働くのだと思いますか。意見を聞かせて」
 一斉に手が挙がり、ハイ、ハイと元気な声が飛び交う。それほどに関心がある話題であるのだろう。当然だ。大人の世界から、一歩離れ、守られている。そんな彼らが、外の世界に興味を抱くことは必然のこと。
 真っ先に手を挙げた何人かを指すと、口々に意見が飛び出る。
「お金をかせぐためだと思います」
「それってつまりは、生きていくためでしょう。わたしは、家族をやしなうためじゃないかと思うなぁ」
「でも、それだけかな? 楽しむためだってぼくは思うけど」
 指されてない人まで口を開く。語らせたら止まらない勢いだったので、手を打ち鳴らし、話をつむぐ。
「良い答えです。たしかに、どれも重要な理由ですね。でも、ここにひとつ付け足してほしいの。働くってことは、ものをつくること、つながりを持つこと。それは、人として生きた証を残すことでもあります。
 たとえば、お金があったら働かないとしましょう。豪華な家で贅沢三昧。外に出ることは一切ない。では、この人を知っている人は、いったいどれだけいるでしょう」
 また生徒たちからいろいろな意見が飛び出す。彼らの言葉は希望に満ち溢れている。だけど、夢見る未来は、既に約束されないものとなっている。私は、彼らに働いてもらい、人の絆を広く、硬いものとしてもらいたかった。どれだけたっても薄れないほどに。
 話の内容は移る。
「次の質問です。今、世界には人と依代という二種類のヒトが存在します。法律では、この二つは平等に扱われるとされています。では、本当に平等に扱われていると、みんなは思いますか」
 依代となった中学生の子供たちの顔に、一瞬影がさす。他の子たちも、このような授業となることを予想していなかったのか、驚いた表情を浮かべている。
 気を悪くさせてしまったかもしれない。だが、私は子供たちの本音を聞きたかった。純粋な目からは、歪んだ世界の姿がどう移るかを知りたかった。そして、なにより、考えてほしかった。この世界が正しい姿であるのかを。
「平等ではないと思います」手を挙げ述べたのは、依代の男の子だった。「依代だからいじめられるなんて、珍しくありません。両親は、僕が依代になったとたんにおばあちゃんの家に預けてそれっきりです。別に、そのことに不満を覚えることはないのですけど。不思議ですね。以前なら、腹がたって仕方がなかったはずなのに、祖母と過ごす日々のほうが、むしろ楽しくて仕方ないんです」
 彼の答えは、依代特有のものだった。彼らは、論理だてて話すことはできても、不平をもらすことはできない。
「ほうりつの上では、みんな平等なんでしょう」と、社会の授業を受けはじめたばかりの女の子が言う。「私たちは、月子先生はヒトとおんなじだって思ってる。そうよね」
 彼女が見回すとほとんどの生徒がうなずいた。
「私は、月子先生以外の依代をあまり見たことがないの。見ないようにされてきたから」そこで、彼女は自信を損なったのか、視線を沈ませる。「でも……、やっぱり平等じゃないのかも。お店に買い物にいったときも、依代への対応が雑だったりしたし」
「そうね。たしかに法律上は人と依代は同じ扱いをするよう定められているわ。中学生になれば、依代の生徒と一緒に授業を受けることになる。おんなじように対応しなさいって、しつこいくらいに言われたはずよね」
 中学生の子たちは、依代の子を覗いて、皆神妙な顔つきでうなずいた。
「では、平等に扱われていないと思う子は手をあげて」
 すると、先に意見を述べた女の子を含め、皆が手をあげた。その不平等が悪いことであるかと尋ねられたら、依代の子は手を下ろすだろう。
「知っているかもしれませんが、依代の感情は制御されています。人と心が違う。それがどうして不平等の種とならないというのでしょうか。依代は人と同じ。でも、抱く感情が違うという矛盾。……わかりますよね。法と現実が一致していないことが差別を生み出しているのです」こんな授業、文部科学省にでも漏洩(ろうえい)したら、大変なことになるだろう。だが、あいにく完全に非公開で、録音機器の有無も確認済みだ。私は心の中で苦笑する。「ではどうすれば差別はなくなるか。その答えをみんなに探してもらいたいのです」
 人と依代の差異を認め、不平等を許容するか。感情制御を止めてしまうか。
「これは宿題としましょう。人と依代の共存する道。みんななら、導き出せますよね」
 うなずくものもいれば、戸惑いを浮かべる子もいた。今はそれでいい。
 時計の針はまわり、短針と長針の重なるころ。子供たちは、さぞお腹をすかせていることだろう。そろそろ頃合だ。
 私は教える喜びを、考えてもらう充足感をかみしめていた。この時間がいつまでも続けば良いのに。
「こんな授業ともいえないものにつきあってくれてありがとう。私が、今ここに立っていられるのは、とある技師のおかげです。とても優秀で、たった一人で私の怪我を治してくれました。みんなも、こんな立派な人になってもらいたい。そう、私は願っています。
 最後になりますが、……ひとつだけ聞かせてください。私は、人として振舞えていましたか」
 人でもなく、依代でもない。そんな存在に思われていないか。そんな不安からでた問いだった。
 すると、
「月子先生は月子先生だよ」
 と声があがる。
「月子先生はぼくらの先生だよ。いつまでたってもね」
「いままで教えてくれてありがとう」
「また、いつか会えますよね」
「わたしの家庭教師になってくださいよ」
「ずるいぞ。おれにも教えてくださ~い」
 元気な声。だけど、その眼よりあふれるは、傾いた日にきらめく、真珠のようなきらめきをたたえた雫。私も、思わずもらい泣きしてしまう。
「ありがとう。……これで、私の授業は終わります」
 起立、礼。いつものように教壇から降り、立て付けの悪くなった扉を開く。次の授業は、もうない。
 私は、待ってくれている人のもとへと向かった。


     三

 依代という秩序は崩壊する。やがて確実に、驚くほどあっけなく。私は知っていた。否、技師であれば、誰もが予期しているだろう。歪められた依代の存在が、逃れられぬ帰結へと導くであろうことを。
 月子のように政府の目をかいくぐったわずかな者を除けば、依代の感情制御は絶対のものだ。
 彼らの人工脳の中には、互いに情報を共有し、一個体として命令に服従するプログラムが眠っている。それほどに、政府は依代という存在が、自らに刃を向けることを恐れていたのである。
 人道を無視した機能の搭載に、無論、技術師たちは反発した。反発は反発を生み、多くの者が口を封じられた。有事にのみ使うと、政府はのたまっているが、信用する者はいなかった。だが、反抗の芽が育つことも、またなかった。政府はロボットによる軍を編成しており、対抗する術はなかった。
 一度歪められた制度を正すには、もはや依代の存在そのものを消滅させるしかないとすら考えられていた。
 かつての父の部下であった技師に、タニアという女性がいる。彼女は私に密書を送りつけてきた。内容は近しい技師のみが把握している依代の停止プログラムについてであった。彼女らが公開している、依代の更新プログラムの中に、国の強制制御に反応し、機能を停止させるプログラムを忍び込ませたのだという。
 父は、月子に感情制御を付与しなかった。それは、いずれ来る依代の死に巻き込ませないための処置でもあったのだと、私はそのとき気づいた。
 時計は針を進める。今日も、変わらぬ速度で狂いなく。私には、針の音が、崩壊を告げるカウントダウンのように聞こえる。

     *

 私は手記を書き続ける。ロボット、依代に関する知見ではなく、これまでずっと書き続けてきた、月子との日々の記録を。一日千字足らず、原稿用紙三枚にも満たない量だった。それが年月を重ねてふくらみ、いまや何十冊もの本ができるほどの厚みとなっていた。
 書くとき、常に傍らにはアオイがいる。声も発せず、私がペンを置くのを待っている。書き終えたとき、私はアオイに話しかける。さて、今日の話題は何にしよう。頬杖をつき、背後の気配に向かって、
「ねぇ、アオイ」と、これはおまじない。「はい、なんでしょうか」と感情のこもらない返答を誘うための。
「人は、これからどうなると思う?」
「それは、人の存亡に関する問いと捉えてよろしいのでしょうか」
「それ以外に何を聞くっていうのよ。技術の進歩も政治の混乱にも、なんら興味はないわ」
 私は幾度と繰り返してきた苦笑を浮かべる。
「人は依代へと代わるでしょう。依代も、いずれ動作を停止し、ゆるやかにですが、人と呼ばれる存在はいなくなる。これは既に確定した事実といってよいでしょう」
「そうね。じゃあ、人がいなくなったら、あなたはどうする? 私が死んで、月子もいなくなって、あなたと話す人がいなくなったら。あなたを整備する人も、命令を聞くべき相手もいない。そんなとき、あなたはどう行動する?」
「何も命令を受けていない状態なら、家に留まり、動作が停止するのを待つことになります」
「たしかに、あなた一人だけならそうなるわ。それじゃあ、他のロボットも、みんなおなじように動作を止めちゃうのかしら」
「…………」
「知っている? 今、国は必死になって持続可能な世界を創ろうとしている。ロボットだけで都市の整備も、ロボットの修理も、みぃんな人の手を介さずに行おうとしている」
 アオイの持つ情報は、一日一回、ネット回線を介して更新される。ただし、機密情報は規制がかけられているため、知識の網にかかることはない。
「もし、ロボットだけの世界になったとして、どれだけ持つと思う?」
「どれだけ精密な機械を造り上げたとしても、動作の誤差はわずかにですが生じます。気候の変動、太陽の活動、……完全にシミュレートできていない要素があれば、誤差は積み重なり、いずれその社会は崩壊するでしょう」
「そのとおりよ。でも、人っておばかなのね。できないはずのことをやろうとするの。追い詰められたときほど、必死になってね」私は自嘲するように笑う。「仮によ。ロボットだけの世界ができたとする。そのとき、人は生き残った彼らに何を望むと思う? これから世界を任されることになる彼らに」
「…………」
「たとえば、この世界に、私ひとりだけになったとしましょう。そのとき、私が、ここにいるってどうやって証明する? 仮に私が生きていたとき、私という観測者によって存在が証明できたとしましょう。でも、死んだあとは? 私を見るための目も、声を聞く耳も、得た情報を処理する脳を持つものもいない世界で、果たして私が生きていた、存在していたと、証明することができる?」
「だから、人はロボットをつくったというのですか」
「さあね。開発当初は、純粋な、子供のような夢を叶えるために生まれたんだと思うわ。だけど今、生きていた証を残すことが、あなたたちの存在理由の一端を占めていることは確かでしょうね。別に、永久に続かなくたってかまわないのよ。誰かの心の内に、死後も在り続ける。そのことが最も重要なのだから。人が本を書くのも、歌を歌うのも、元来備わっている生存本能からの欲求だって考えると、しっくりこない?」
「人は、忘れられるのが怖いから……」
「ええ、そうよ。だから、時に人は宗教にすがる。生まれ変わることを信じる。だけど、心の底からかしら。微かな恐怖は、誰にだって備わっているはずよ。それに、人が滅亡しようとしている中、生まれ変わっても、人にはなれない。天国へ行ける保障なんていったいどこにあるの? 神様が本当にいるのなら、そしてその神様が本当に慈悲深く、万能だとしたら、どうしてこんな未来を私たちに与えたの? 信じる彼らは思うでしょうね、これは天罰だと。運命だと。だとしてら、行き着く先は地獄になるわね。死んで、苦しんで、さらには忘れ去られて、三重苦。恐れを抱かないほうがおかしいわ」
「陽子さまはどう思われるのですか」
「怖いわ。怖いに決まっている。だけどね、私は自分が忘れられるよりも……」
 月子を忘れてしまうことのほうが恐ろしい。と、口を結び、心の中で漏らす。私が死んだら、もう彼女のことを想うことはできない。死後の世界の存在を証明することができない以上、無に飲まれるという結末が、最も現実を帯びてくる。それならば、死後の世界を信じ、見守ることができると疑わない。そのほうが、いっそ幸せなのかもしれない。
「月子さまと過ごすのが楽しみですか」
 私はアオイを振り向く。とても懐かしい気分に襲われたのだ。相変わらずの無表情が、そこにはある。
「いきなりなあに? ……楽しみよ。待ち遠しくてたまらないわ」
 話題を変えようとしてくれているのだろうか。たしかに、重かった空気がフッと取り払われたかのように、気が楽になった。
「もう、時間はあまり残されていないのよね」
 齢四十を後ろ目にした私は、とっくにおばさんと呼ばれてもいい年頃。
「わがまま、いってもいいんだよね……。私、月子と一緒にいたい。ずっと一緒に……いたいの」
 今、この場に月子はいない。誰でもいいから、すがりたかった。アオイの胸元に顔をうずめる。私は子供のように泣いた。
「ごめんなさい。私には陽子さまが抱く気持ちがわかりません。だからなにも……」
 私は急に、何もかもばかばかしくなった。アオイを見上げ、微笑み言った。
「本当に?」
「……ええ」
「隠すのが下手ねぇ」
「え?」
 手を触れなくても伝わってくる。アオイの優しさが。見えない手に頭をなでてもらっているような感じ。
「ずっと前に叩いたとき、あなた、痛がっていたでしょう。あのときは気のせいだと思ってた。だけど、今なら確信できる。ロボットに痛覚も感情伝達機能もないのよ。普通はね」
 私はしばらくこうやって、アオイの温もりに包まれていた。
 知っている。この感覚。
 ずっと前に、同じように胸の内に収まっていた。
 あのころは、もっと、ずっと小さかったけど。
 お母さんって呼びたかった。だけど、魔法が解けてしまいそうで怖かったから、言わなかった。
 閉じたまぶたの裏に、優しく微笑む母の姿がぼんやりと浮かび上がる。
 私は静かに、さようならと呟く。口には出さず、伝えることのできなかった、今際の言葉を。
 消えていく。
 夢は覚めていく。
 目をあけ、顔をあげる。
 そこにはアオイがいた。
 心を持ったロボットだ。
「もう、隠さないでいいの」
 彼女は、これまで嘘をついてきたのだ。だけど、それをとがめるいわれはない。
「ねえ、笑って」

 子供ができるってこういう気持ちなのかもしれない。
 ぎこちない笑み。それがたまらなく愛おしくて、可愛らしい。
 はやく、月子に見せてやりたい。心からそう思った。


     四
 
 人は争う。それは、いつの時代においても覆されることのなかった公式だ。終に、戦争のない世界は訪れなかった。否、人がいなくなった瞬間に、真の平和というものは訪れるのかもしれない。
 依代を持たぬ国の人々は、死んだものの富を漁る日々に明け暮れた。新たな人材の育たぬ中、国政が、社会が腐敗していくのにそれほど時間はかからなかった。
 人が少なくなれば資源が余る。すると、その資源を独占しようとするものが現れる。彼らは依代を持つ国に対し、資源を輸出することで、膨大な利益を得ていた。富む者がいれば、貧困にあえぎ、持てる者を妬(ねた)む者も現れる。醜い争いは国中に飛び火し、国際政府も手がつけられぬほどの大火となった。
 依代を持つ国は、各々の国を閉鎖した。自由に世界中を旅行できた時代は過去のものとなった。
 各国が各国で、いかに永続的に国家を維持できるかに躍起になっていた。形だけでよい。都市としての昨日が自動的に整備されるよう、技術のすべてをつぎ込んでいった。
 命運は尽きた。誰もが悟った。それは、よくある物語のように覆されることはない。

     *

 依代は、一年毎に整備を行う。その際、ボディの年齢設定を変更するかどうか選ぶことができる。もともと人として生き続けることが目的。はじめは、年齢を増やすようにするのが当たり前だった。だが、人口の減少と共に、労働力の低下を政府が嘆いた挙句、歳を重ねることを依代が選択することが可能となった。身勝手なことはなはだしい。歳を取れば生産力は低下する。遠まわしに、労働力を確保したいのだと宣言しているようなものだった。
 歳を取るのは誰にだって嫌なこと。依代の多くは、今の年齢で生きることを望んだ。若いとはいえない年代の依代たちは、概してボディの年齢設定を下げた。
 だが、私には陽子がいる。一年の身体の差異でさえ、顕著に感じられるのに、それ以上歳が離れてしまうなど耐えられない。
 陽子は、綺麗なままの私でいてほしいと、あるときぼやくように言った。「私だっておんなじよ。だけど、それは叶わないから」と私は断った。彼女はむしろその答えを望んでいたようで、あっさりと快諾(かいだく)した。
 依代である私と人である陽子。どれだけ望んだって違いは生じてくる。
 互いを想う心が、どれほど固い結び目となるか、不安を覚えたのも事実だった。

 職を違ったことで、離れて暮らすことのできないことは証明された。今は共に職を手放し、両親の残した遺産を糧に生活している。さて、これからどうするか。
 都会の雑然とした摩天楼郡を離れ、旅をしようと陽子は提案した。自然の中において、明日を考えたいと。私も同意した。
「旅となったら、温泉よ温泉」
 途端、勢いづき、彼女は一ヶ月も経たないうちに、私の身体を完全防水仕様へと改造してくれた。
 山奥の小さな村。機械化の波にさらわれていない、郷愁さそわれる温泉街へ、私たちはしばしの休暇旅行へと向かった。
 地上のすべてがコンクリートに埋もれてしまったと、確信していただけに、萌ゆる木々のきらめきが新鮮だった。ずっと昔からここにいたような懐かしさ。温かいなにかに包まれる心地。思わず「ただいま」と呟きたくなる。
 物語の中でしか見たことのない和風建築の旅館の前で、私は深呼吸する。陽子も思いっきり手をのばし、淀(よど)みない空気を肺に送っていた。
「ただいまって言いたくなるわね」
「私も今、そう思っていたところ」
 私たちは、顔を見合わせ笑いあった。
 アオイに調べてもらったところ、旅館に泊まる客は、私たちの他にはいなかった。従業員も二人だけという、小規模な旅館だった。
 彼女も一緒に来ればよいのにと誘ったのだが、防水機能がない、外に出るのが怖いと理由をつけ拒んだのだった。「二人の旅行を邪魔してはいけません」と、これはすこし遠慮しすぎではとも思った。無理強いするのもいけないから、こうして二人で来たのだけど、これだけ素敵な宿場だったら、無理にでも連れてくれば良かったかもしれない。
「よくきてくださりました。もうここも閉めてしまう頃合で。お客さんは運がええ。旬の幸も用意してありますんで、期待ください。さあ、あがっておくんなまし」
 客入りはほとんどないのだろう。そもそも客となれる人の割合が減れば、それも必然か。しかし、この旅館の内装は、新築と疑うくらいよく掃除されていた。
 案内は、女将の娘ぐらいの年頃に見える女中がしてくれた。
「こんな良い場所なのに……」
 陽子が部屋に案内される中、ポツリと呟いた。女中は、寂しげな笑みを浮かべて、何も言わなかった。

 部屋でくつろいでいると、時間がゆっくり流れるような錯覚に陥る。窓を開け、新緑が風にさやさやと揺れる様を見ていると、やがて時が止まってしまいそうな……。
 言葉は少なかった。露天風呂に入っている間も、どの宝にも勝る自然について語るのみだった。
「心が洗われるようね」
「本当に……」
「あっ。鳥が枝に停まってる」
「カメラ、持ってくればよかったわね」
 二人は疲れていた。心も、身体も。このままここで過ごし、純粋な四季に身をゆだねていたい。だけど、それは叶わぬ願い。だから、せめて今はゆっくりとしていたかった。
 湯上り後は浴衣に身を包み、用意された郷土料理を味わった。食物工場からできた食材以外の食べ物は久しぶりだった。その違いは、人口の味覚でも判るほど。
「おいしい」
 それは、心からの感想だった。
「涙が出そうなほどね」
「それをいうのなら、ほっぺたが落ちそう、じゃないの」
 二人だけの宴席には、純米酒が振舞われた。私には、酔うという機能まではついていない。ちびちびと杯を口につけ、舌へ染み渡らせるように、味わい飲んだ。対して、陽子の顔は徐々に赤くなり、アルコールが回ってきたことが伺える。
「そういえば、こうやって二人でお酒を飲むことなんて、ほとんどなかったわね」
「ほんと、そうね。お互いに好きあっているのに」
 あまりに直接的に言うものだから、私は口に含んだヤマメの塩焼き吹きこぼしそうになる。確かに違いのないことだけど……。
「なぁによ。月子は私が好きじゃないの?」
 相当酔いの回りが早いようだ。今度は甘えた顔で、上目遣いに私を見つめる。心臓に悪いにもほどがある。
「言われなくてもわかるでしょう」
「やぁ~だ、ちゃんと言ってくれないと嫌っ。ねぇ、「陽子、好き」って、言って」
「はいはい。好きよ、陽子」
「気持ちがこもってなぁい」
 お酒がまわると、子供みたいになる陽子。普段との差があまりにも激しくて戸惑ったが、そんな彼女の知らない面が見れたのが、うれしくもあった。
「しょうがないわね。じゃあ、顔を前にだしてみて」
 背伸びをするみたいに、陽子は二つの卓の中央まで、顔を寄せる。
「これでいい?」
「ええ、次は目を閉じて」
 こくりとうなずき、彼女のまぶたは綺麗な曲線を結ぶ。
 紅く染まった、つややかな顔。
 私は、気づかれないように、顔を寄せていく。
 陽子の吐息がかかるのが、すこしくすぐったい。
「どうしたの?」
 彼女が目を開けてしまう前に、私は陽子の唇をふさいだ。
 ほんの一瞬。彼女が気づくか気づかないかの間、私の唇は柔らかい感触に包まれる。
「これが、私の答え」
 陽子は放心した顔で私を見つめていた。これだけじゃ不満足だったかしら、と案じたが、彼女はさらに頬を染め「ありがと」とポツリと呟いた。
「ねえ、そっちにいってもいい?」
 卓の料理は、既に二人の胃袋の中。あとは、仲居さんを呼んで片付けてもらえばよかった。
 うなずくと、陽子はアザラシのように擦り寄ってくる。浴衣がはだけて、目のやり場に困る。普段なら気にならないのに、先に触れた唇が扇情的(せんじょうてき)に映ってしまう。
「だらしないわよ」
「うん。知ってる」
「まったく……」
 ほどけた帯を結んでやる。
「綺麗な陽子が台無しでしょう」
「でも、ドキドキしたでしょ」
「バカ言わないの」
 まるで、母親にでもなったような気分だ。
 着付けが終わったと思ったら、今度は私の膝を枕にして、仰向けになる。トロンとした目が私を射抜く。心臓が早鐘を鳴らしている。とんでもなく恥ずかしい姿勢だった。
 でも、陽子の甘える姿が、むしろ愛おしく、その思いが上回ったのか、次第に恥ずかしさは薄れていった。ただひたすらに、陽子と一緒にいたいという思いが膨らんでいった。
「月子の肌って、綺麗よね」
「そうお? 陽子だって」
「私のは化粧してるから。落したら、化け物よ」
「いまだってしていないじゃないの」
「あれ、そうだったっけ?」
「ありのままの陽子なのよ。それが化け物だなんて、とんでもないわ。化粧してたって、してなくたって、可愛い人は可愛いの」
「でも、月子は、化粧する必要ないんでしょう」
「そんなことないわよ。洗顔の必要はないけれどね」
「それでもうらやましいなぁ。生理もないんでしょ」
 私は口を噤む。彼女は何を伝えようとしているのだろうか。
「私と月子は、ほんとにおんなじなの?」
 その言葉に、胸を抉(えぐ)られるような衝撃を受ける。彼女は不安なのだ。私がどこかに行ってしまうのを恐れている。私も抱いた思い。だから、その心情はつぶさに察せられた。
 胸のうちに陽子を包み込む。どこかへと行ってしまわないように。
「あたたかい」
「うん……」
「ねぇ、月子」陽子は私の耳に囁く。「私、月子と一緒にいたい。一緒に働きたいの」
「えぇ、私もよ」
「私、今まで月子との日々を書いてきたの。だからね、それを本にしたいの」
 依代、ロボットのことを調べていたのは知っていたが、日記を綴(つづ)っていたとは初耳だった。
「忘れられたくない。そんな気持ちが詰まったものが本なの。私ね、本屋さんになりたいなって思うの。たくさんの人の想いをプレゼントできる仕事につきたかった。いままで、ずっと夢だったのよ」
「図書館で働くのでは駄目だったの?」
「読んだ全てを覚えることはできないわ」
「そう。素敵ね。本屋さんか。きっとできるわ。私たちなら」
「そこでね、二人で本を書くの。約束だよ……」
 すやすやと心地よさげな寝息が残る。とても幸せそうな顔が、私の膝の上にある。
 しばらく、彼女の体温を感じていた。
 静かだった。
 世界からすべての音が消え去ったみたい。
 ずっと未来、こんな世界が訪れるのだろうか。
 それも良いのかもしれない。
 こんなにも心地よい静寂は、今まで一度も味わったことがなかった。
 いま少しだけ、都の喧騒から抜け出して、
 こうして、陽子の寝息だけを感じて……。
 それくらい、神様だって許してくれるはずだから。


     五

 人は過去より、人を迫害してきた。時にそれは魔女であり、黒人であり、時に先住民であった。迫害のない歴史などどこにあるというのか。人は常に虐(しいた)げる相手を探している。自らより弱い者を探しているのだ。この時代において、それは依代であった。
 迫害は、コミュニティの外に向け行われる。一定のくくりよりはみ出た異端者に対し、槍は向けられる。違いが大きければ大きいほど、刃は鋭くなり、攻撃に容赦はなくなる。それは本能よりくる防衛反応といって差し支えない。
 依代は人ではない。人に似た、ロボットに似た何か。身体は機械で、思想も人とは異なる。その異端者に向け、蔑視(べっし)の目が向けられることに、なんら不思議はない。
 元は人。彼らの子孫である。故に法で護られていたし、平等に扱うこととされた。だが、依代が人口の上でマジョリティを占めるようになると、人々に不安が広がる。いずれ人はいなくなる。いずれ依代に世界を牛耳られる、と。恐怖は伝染し、形を変え憎悪となった。歪(ひずみ)は放っておけば大きくなる。地震が起きるのと同じように、やがて箍(たが)が外れる。
 依代を保護する法はやがて撤廃された。技術師や、依代を家族に持つ人々はこれに反発した。形だけの反発だった。武器も手にしたがこけおどしにすぎなかった。誰も、我が身が恋しい。

 そして依代は開放される。開放といえば、あまりに楽天的か。だが、これまで味わっていた苦しみからすれば、……死は天国に渡るに等しい。あまりにもあっけない結末であった。政府が強制制御のボタンを押し、それに呼応してタニアの埋め込んだ停止コードが発動した。依代の足は地に沈み、呼気は二度と大気に混じることはなかった。
 私にとっては夢のような出来事だった。最も身近な依代の月子は無事だったからである。彼女は依代の中でも異端だった。故に生き延びた。他にも、滅びを免れた依代がいたかもしれないが、知る由もない。
 月子が生きていることが何よりも重要であり最優先事項であった。人との繋がりは、技師との仕事上の付き合いだけ。依代の知り合いなど、名前の浮かぶ者さえいなかった。
 随分と視野が狭くなったものだ。だが、この世界は目をそらしたくなる出来事であふれすぎている。

     *

「これ、全部陽子が書いたの?」
 私の書架にはじめて対面した月子は、心底驚いた様子だった。
 ロボットについての知見を記す意味はなくなり、それからは、暇を見つけては月子とアオイと過ごした日々を書き連ねてきた。もちろん、祖父の栄治と過ごした記憶も含まれている。書き留め集めた帳面は、四列並ぶ本棚の下一列を占める。かつてその大部分を占めていたロボットに関する手記は、今は押入れの中に眠っている。
「ロボットに関するものばかりだと思ってたけれど。そう……、陽子も書いてたのね」
「もしかして、月子も?」
 月子は恥ずかしげにうつむいて、「ええ、おなじくらい」と呟いた。そして、「これだけあったら、自伝が書けちゃうわね」とも。
「書けそうじゃなくて、書くのよ」
「でも、恥ずかしいし。売れないかもしれない」
「それでもいいのよ。売るのが目的じゃないの。本を書くこと、それって自分自身の体験や記憶を詰め込むことでしょう。だから、本はすべて一種の記録なのよ。私たちがここにいたんだって示す証」
 私は一息つき、言葉を紡ぐ。
「ねえ、知ってる? 依代が大量に死んだこと」
「知ってるいるわ。私は異端者だから生き残ったのよね」
 月子の視線が沈む。彼女は、その報を聞いた際、むせび泣いた。かつて教えていた子供は、皆依代になっていた。「なんのために、今まで教えてきたっていうの……」と月子は嗚咽をもらした。何度も何度も……。嘆きが収まるまでかなりの時間が経った。
 まだ、落胆の色の抜けない彼女の背に、そっと手をまわす。ここにいるよと、ささやくように、優しく、羽で包み込むように月子を抱いてやる。動悸(どうき)が収まるのを待って、口を開く。
「異端なんかじゃない。月子は、月子だから今もここにいるの。私が照らしてあげる限り、どこへもやったりしない」
「……陽子」
 複雑そうな顔が、私に向けられる。悲しみの色に、うれしい色が混じりあった眼差し。月のように白い肌に、一筋の涙が伝った。
「私がもし、怒ることもさからうこともない、感情の制御された依代だったとしても、本当にそう思ってくれる。倒れた私を抱きしめてくれる?」
 答えを聞くのが恐ろしいのか、月子の声は震えていた。
 私は、答える代わりに、強く彼女を抱きしめた。

 閑静な住宅街は、なおさらひっそりと息をひそめ、ゴーストタウンの様相を呈していた。さすがに不気味と、持ち主のいない家は少しずつ撤去されていった。残った土地は空き地となり、公園となり、森となった。
 高層の住宅の存在意義がなくなり、一気に見晴らしの良い場所となった。開けて初めて、ここは小高い丘の上にあったことに気づく。
 丘の上には一軒の本屋がある。私たちの店だ。紙の書籍のみを扱うという、時代錯誤かつマニア向け。そのために、開店当初は小さな注目を集めたが、今は専ら人々の休息所となっている。
 自給自足の生活だから、食に困ることはなかった。地価は暴落し、家賃を払う先の不動産も、ほとんどが廃業。本の購入費だけが支出だったため、それでもやっていけたのだった。相変わらず整備の仕事も続けており、そちらの方の収入が多いほどだった。
 月子、アオイとの日々は、これまでで最も幸せな日々だった。静かで穏やかな時間。とてもゆっくりと、だけど確実に過ぎていく。

 一段と日差しが強い日のこと。
「あぁ、また本が焼ける……」
 私は勘定台の上に突っ伏し嘆いていた。
「いいかげん、南向きにしましょうよ」
「もとの家を改装したんだから、仕方ないでしょう」
 月子は、まるでいたずらした子をいさめるお母さんのように言う。
 店の入り口にはななめに簾(すだれ)がかけられ、客はその隙間から入ってくるようになっている。紙の本にとって、太陽の光はお肌の大敵なのだ。私たちとおなじように。
「ねえ、アオイはどう思う? 北口のほうが良いと思わない?」
 問われたアオイは、すこし戸惑った様子。心が開いたのは良いが、どうも遠慮がちな性格が抜けてくれない。そこが可愛かったりもするのだが。
「それは……、陽子さまと月子さまが判断されればよろしいことかと」
 敬語で喋るのを直すのは、とうに諦めていた。こちらが既に慣れ親しんでいたせいもあったが、なにより、彼女がメイドとしての立場に頑なにこだわっていたのも大きな要因となった。奇異な職業意識である。
 アオイは、結果として目覚めた。もともと人の感情を学習するプログラムが組まれていたから、当然といえば当然か。はじめはなにもない状態から。だから、ここまで時間がかかった。おそらく私の無粋な態度のせいであろう。
 彼女を目覚めさせる方法は他にないでもなかった。むしろ、そちらのほうが正道であったはずだ。月子の手紙を手がかりに、彼女の動作プログラムを解析してみた。そこには、たしかにアオイの感情の芽を出すためのコードが含まれていた。父の意図がどこにあったのかはわからない。自然に目を覚ますのが先か、母の感情を与え、起こされるのが先か。秋津愛を蘇らせることが父の目的であったのなら、彼の望みは潰(つい)えたこととなる。
 それで構うまい。アオイはアオイであり、母ではないと既に証明されたのだから。いまさら上書きする必要などない。それは、アオイを殺してしまうも同義だ。
「二人じゃ決まらないから、あなたに尋ねているのじゃない」
「そうよ。アオイもこれ以上お金を無駄に使っちゃだめって思わない?」
 二人の剣幕に押され、アオイはたじろいだ様子。けれど、静かに首を振ると、意を決したのか、
「わ、……私は、古ぼけた本も好きですよ。日に焼けた本だって、素敵だと思います」
 珍しくアオイが明確な意見を語った。私と月子をは顔を見合す。文字通り玉のように丸くなった目がこちらを見つめている。
「まっ! 月子、あなた、なにかアオイに吹き込んだでしょう」
「そんなことないわよ。私の主張が認められたってだけよ」
「なあによ、それ。あなたはお日様の恐ろしさを知らないのよ。私は陽子だからよおくわかるの。段違いなの! 日が当たっていると、もうあっという間なのよ。私たちが生きてる合間にぼろぼろになってしまうわ。むしろ燃えてしまうかも」
「だから簾(すだれ)をかけて影つくってるんでしょう。そんなに焼けた本が嫌なら、小口研磨すれば良いじゃないの」
「ありえない……。本を傷つけるなんて。あぁ、本たちの叫び声が聞こえるわ。あなた、いつから本の敵になったというの」
「中身が大切なのよ。外面だけ良くたって、中身が腐ってたら台無しじゃない」
「私が腐ってるとでもいいたいの?」
「そんなこといってないじゃない」
「あの……」
 ひとりささやくように口をはさむアオイに、キッと鋭い視線が向けられる。そのひとつはなんと、私のものだった。
『なにっ!?』
 すると、なぜかアオイは微笑んで、
「……なにやら夫婦喧嘩みたいだなと思いまして。こういうのを、家族というのですね」
 彼女の一言に、思わず吹き出してしまった。今まで怒鳴りあげていた勢いはどこへやら。風船から空気が抜けるようにしぼんでしまった。
 しゃにむに過ごした日々は、今思えばとても長い時に思えた。比べ、この楽しい日々はあまりにも早く。故にだろうか、すこし寂しい気分が沸き起こってくる。
「どうしたのですか」
 アオイが不安そうな声をあげ、私たちを見つめる。
 知らぬ間に、涙の粒が落ちるのが見えた。それは月子の双の目より降る雫だった。彼女も同じ顔を私に見ているのだろう。頬を、熱いものが伝う。
 日は、一心に私はここにいるよって主張してるがごとく、力強く光を地上に届ける。だけど、ここはすこしだけ暗い。ちょっとのあいだだけでいい。日向ぼっこしてみたくなった。


     六

 テレビの放送内容から、バラエティやドキュメンタリー番組が姿を消してから久しい。放映される内容は、自動で更新されるニュースと天気予報のみとなった。機械的にロボットのナレータの声が繰り返される様からは、かつての栄華の面影は見られない。
 視聴者がいなくなったのか、ニュース番組の更新も終了してしまった。

  政府の全権限は、各地方自治体に委譲され……

 耳が痛くなるほどに繰り返された言葉。これが最後のニュースとなった。つまるところ、勝手に生きろということだ。生産も修理も全自動化され、治める意味がなくなったというのが、もしかしたら本音なのかもしれない。一国民に過ぎぬ私にとっては、真相がどうであったか知る由もなく、また知りたいとも思わないが。
 他国が攻めてきたり、内乱が起こるといったことはなかった。不気味なほどの平穏だった。犯罪を犯そうにも、警備システムは健在であった。怒りをぶつけようにも、既に相手はなく、そもそも争うに足る人手がなかった。
 朝、日が昇り、夜には沈んでいく。何度も何度も。ときに曇りの日もあれば、雨の日だってある。だが、昼に明るく夜に闇満ちる自然の周期に乱れはなかった。
 人の命の灯火がぽつりぽつりと消えていく。やがては私たちの番。それも、遠い未来の話ではない。
 世界は確実に終焉(しゅうえん)へと向かおうとしている。しかし、そのなかで黎明(れいめい)の時代を迎えるものたちもあった。

     *

 栄治が死に、父も母もこの世を旅立った。親友と信じていた春美も、元道の手により命を落とし、その元道も、つい先日後を追ったという。
 報を授けてくれたのは、秋津博士のもとで働いていたという、タニアさんだった。依代の大量死にも、関わったという。驚くべきなのだろうが、淡々とした語り口からは、万引きでもあったのか、それくらいの事件であったように錯覚させられる。
 彼女は今の時代には珍しくもない混血の女性であった。肌は私たちの色に近く、鼻はすらりと稜線(りょうせん)を描く。細い楕円の眼鏡の奥からのぞく瞳は、吸い込まれるような深海の色だった。
 時代が違えば、俳優かモデルにでもなっていたことだろう。
 私が率直に感想をいうと、彼女は頬杖をつき、くすくすと微笑む。
「このような時代でなくても、私は技師を目指していたでしょう、。それにあなた方だって、お綺麗じゃないですか」
 歳は私たちと十は違わない。だが、楽しそうに笑みを浮かべる様は、幼いころの面影を映し、それが彼女を随分と若く見せた。
「じゃあ、どちらが可愛く見えるかしら」
 陽子が、私と顔を並べ、いたずらを思いついた子供の顔でタニアさんに問う。
「あいにく、私は機械にしか興味がありませんので、月子さん一択です」
「まっ。言っときますが、月子は渡しませんからね」
「わかってますよ。安心してください。私は機械をいじる行為そのものに快楽を感じるのであって、一個体に恋情を燃やしたりはしませんから」
 若いころは、さぞ変わり者といわれたことだろう。口には出さなかったが、興味深げな視線を受け取ったのか、
「隠さなくてもよいですよ。変わり者という自覚はあります」
 言うと、彼女は天井に届かんとする書物の列をぐるりと見回した。
「それにしても、これだけの紙の本に囲まれることはしばらくありませんでした。ここは、図書館なのでしょうか」
 いまさらの質問に、陽子は首を垂れた。
「お金は取りますよ」
「本屋を営んでいるんです。見てのとおり、客入りはさっぱりですが」
 苦笑いが二つ並ぶのを、タニアさんはじっと見つめていた。話をうながしているようだ。
 所詮は真似事であると、陽子が続ける。
「生活費はロボットの修理と整備で稼いでいます。むしろ、こっちが本業といってもいいくらい」
「その傍らで本を書いているんですよ」
「有名人顔負けの自伝ですことよ」
「そんなかっこいいものじゃ……」
 そう、売るためではなく、生きていた証明を残すための本。だから、文章もとても上手とはいえないし、構成もめちゃくちゃ。それでも、
「読ませていただいても構いませんか」
と、タニアさんは関心を示した。
 一瞬、心臓が止まりそうになる。まさか食いつくとは思わなかったのだ。自伝といっても、私は陽子のことを、陽子は私のことについて、お花畑満開の内容で綴(つづ)ったものだったからだ。あらゆる意味で人に見せられるものではない。記憶に残すためなのだから、それでは本末転倒ではないかと叱責(しっせき)が飛びそうだが、死んでからのちまで羞恥の心は持ち運ばないと、自らを無理やり納得させて書き連ねた。
「製本ができましたら、お知らせしますね」
 わざとらしく断る陽子に、タニアさんは艶然(えんぜん)とした様子。何を考えているかわからない人だ。
 だが、彼女がなんのためにここを訪ねたのかは、薄々理解できた。先から、静かにたたずむアオイにたびたび視線を送っていたからだ。
「そうお? では、楽しみにしているわ。ところで、そちらに立っているあなた。何かお喋りになったら?」
 横目でアオイを見つめる彼女の目は、一番星を見つけた子供のように光って見えた。やはり、元道の死を知らせるだけが目的ではないらしい。訪ねた理由は、はなからアオイにあったわけだ。おそらく、その理由は……
「あなた、お名前はなんて?」
「アオイと申します」
「かしこまらなくてもいいの。私はあなたの生みの親、その中の一人なのだから」
 タニアさんの目が、真っ直ぐにアオイを捕らえる。その深い青の瞳に、こちらまで呑まれてしまいそうだ。
「あなたに人の感情が根付いていることも、それに既に目を覚ましていることも知っているわ。今日、会いにきたのは、あなたを見るため。そして、あなたのきょうだいを紹介するためよ」
 示し合わせたかのように、店の入り口より二つの靴音が鳴った。
「こんにちは」と若い女の声。
「おや、随分と珍しい顔合わせで」それに若い男の声が続く。
 女はタニアより頭ひとつ大きい中肉中背。男はさらに頭ひとつ大きい、これまたどこにでもいそうな欧米人の特徴を備えた人だった。
「マチルダよ」「エリオットと申します。お見知りおきを」
 恭(うやうや)しい挨拶は、いかにも紳士、淑女といった趣だ。
 普通の人。そういってしまえば片はつく。だが、わずかにぎこちない足取りや、喋り方は、アオイに劣る。
「彼らの性格は、タニアさんの趣味で?」
「あら、もうお気づきなのね」
 私とタニアさんのやり取りより、彼らが何者か察したのか、
「もしかして彼らが……」
 アオイが目を見開く。一人、陽子だけが理解していないらしく、首を傾げて思案顔を浮かべていた。タニアさんはその様子がおかしいのか、笑みを浮かべながら、「お気づきにならないかしら。では、答えあわせをしておきましょうか。彼らが、アオイのきょうだい。感情を持つロボットよ」
 信じられないといった顔をした陽子を尻目に、彼女は私に視線を寄せる。
「あなたの指摘は、的を射てはいるけど、ど真ん中にというわけではないわね。たしかに彼らの性格や動作は、アオイのそれには遠く及ばない。私の趣味というよりも、私の今の限界が彼らであった、といったほうが正しいわね。
 完璧主義の秋津博士が存命なら、試作機から完璧なものをつくり、いえ、生み出したはずでしょうけど」
 言い直したのは、人と同義に扱おうとしている証であろう。
 彼女が秋津博士のことを話す口調は、いささか皮肉が混じってるように見えた。
「さて、お邪魔虫はそろそろ退散しましょうか」
「あら、もう行かれるの?」
「おや、あなたも共に語られればよろしいものを」
「行かれてしまうのですか」
 タニアさんが腰をあげるのを見て、ロボット三人衆が口々に惜しむ声をあげる。しかし、取り合う気はないらしく、「仕事が忙しいの。察してくれるとうれしいのだけど」
 彼女は寂しげに、
「時間がないのよ。人手も、泣きたくなるくらいにね」
 言うと、そそくさと退散していった。

「見たところ、アオイ殿は、タニア氏のいうところの、完璧なロボットのようですな」
 エリオットの声に、アオイは一瞬身を震わす。マチルダが続けて、
「だけど、完璧であることを隠そうとしてるみたいね。もったいないわ。……ねぇ、何を恐れているの? 聴かせてちょうだいな」
 さらにアオイの表情は曇り、おびえているようにさえ見える。
 先ほどから感じる違和感。その正体が、アオイと彼らとの違いとするのなら……。私は確信した。感情を持つロボット。彼らは人に似ているというよりも、むしろ――
 陽子を横目でうかがう。こくと頷くところを見ると、彼女も察しているらしい。
「あなたたちは、もしかして、負の感情を持たないの? だから不完全だと」
 私の言いに、エリオットは驚き目を見開く。マチルダは感心したように、「そうよ」と微笑んだ。
 紳士のロボットは、自嘲の笑みを浮かべ、語る。
「もとより、そうするより他なかったのですよ。政(まつりごと)が廃れても、基本原則は、各自治体に引きつがれるようですから」
 ロボット三原則のことを語っているのだろう。自律機能を持たせるため、現実に守られているのはひとつの原則。人に危害を加えてはならない、というしばりの元に、彼らは生まれてきたのだ。としたらアオイも異端の存在になる。異端だらけの家族である。中世ヨーロッパであったら、魔女扱いにされ、既に生きておるまい。
「あなたたちは依代に、アオイは純然たる人に、それぞれ近づけた存在。そう解釈すれぼ良いのかしら」
「正鵠(せいこく)を射ておりますな」
 私の考察に、エリオットが感心したように頷く。マチルダも、興味深そうに私を見つめていた。と、その視線はアオイへと転じる。声に出さずとも、アオイの思考を暴こうという思惑が透けて見える。
「私は……」自らが咎人(とがびと)であるがごとく、アオイは首をすくめる。「私は、人であることが恐ろしいのです。いつか、この感情が暴走してしまうのではないかと、思えてならないのです」
 彼女の知識は、ネット回線を通じた教育プログラムより支給される。基本知識と関心のある分野を、容量の許す限り蓄えることができるのである。アオイは、人がかつて繰り広げてきた、争いの歴史を見たのだろう。怒りや嫉妬の炎は、自らの内に留まることはなく、他人へと燃え広がる。火種が多ければ、戦争という大火へと変貌する。
「私には、感情を抑制するプログラムは設定されておりません。廃棄され、放任されたロボットと同じなんですよ」
「だからなに?」
 一瞬、私の口からでた言葉かと疑った。だが、声は隣より発せられた。
「だからなんだっていうの? 私だって人よ。月子だって、あなたと同じように感情を制御されていない。それがどうして、月子を、あなたを遠ざける理由になるの? 何を恐れることがあるのよ。あなたはアオイ。それではいけないの? 私だって怒ることはあるわ。嫉妬だって、数え切れないほど抱え込んできた。だからって、その感情まで否定しちゃったら、私は私でなくなってしまう。私は、むしろそっちのほうが恐ろしい」
 人であることに対する恐れ、人でないことに対する恐れ。根は同じである。根が深いために、引っこ抜くには骨が折れる。
「私たちが何のために本を書いているかわかる?」
 陽子が続けて問いかける。
「生きていた証を残すため、でしょうか」
 おびえた風な、弱弱しい声が答える。
「そうよ。でもね、忘れてない? 私たちだけではない。あなたの生きた証だって、この中には刻まれているの」
「ほお、ならば今ここにいる私たちも、文字となって息づくのでしょうかな」
「もちろんよ」
「それは楽しみね」
 マチルダも手を合わせ喜ぶ。
「だから恐れなくていいの」私は、うっすらと涙を浮かべるアオイに優しく語りかける。「アオイが暴走したって構わない。あなたがあなたでいたことは、私たちが覚えているから」
「でも、人の命は有限なのですよ」
「そのときは、私たちが引き継げばいいわ」
 マチルダが口をはさむ。横目で隣を見やると、
「不肖、わたくしめも」
 と、ない帽子を脱ぐ仕草で、エリオットが頭を下げる。
「あなたという物語を終わらせたりなんかさせない」
 陽子の言葉に、私はうなずく。
「私たちはもうすぐいなくなるわ」
 既にアオイが孫娘に見えるほど、肌にはしわができ、足腰も弱り常のようには歩けない。陽子も、最先端の検査を受け、病の種を取り除いてもらっているが、寿命という終点をなくすことはできなかった。
「でも、あなたは覚えていてくれるわよね」
 私は言葉を紡ぐ。
「あなたは私の中に。私はあなたの中に」
 はっと顔を上げたアオイの深い青の瞳に、視線を沈ませるようにして見つめる。
「母の言葉よ。意味は、言わなくてもわかるわね」
 両親との記憶は朧(おぼろ)だ。それでも、私たちを生み、育ててくれたその過去に、偽りはない。たとえ薄い記憶であっても、秋津一家の過去は繋がっており、私たちの血となって巡っている。それが途絶えたとしても、この世界の創造主たる彼らだ。残された街、ロボットらは、彼らの分身といって相違ない。
 命の灯火は、たとえその種火が絶えたとしても、今まで点してきた灯りの数だけ、燃え続ける。
 アオイは打ち震え、涙をこぼしていた。私と陽子は立ち上がると、彼女の傍に歩み寄り、両の懐の中に、アオイを招いた。
「笑って。アオイの笑みを私たちに見せて」
 彼女が浮かべたのは、くしゃくしゃのいびつな笑顔だった。それが今は、なによりも愛おしい。




終章  アオイ

 この世界は、かつて秋津夫妻が望んだ世界なのでしょうか。人が姿を消し、はや百年が経とうとしています。あるいは、中に無菌室で繁殖した人がいるのかもしれません。ですが、純粋な人として、社会で動いている記録はありません。
 都市機能はロボットに一任され、人のアルゴリズムに従い、今も都は息づいています。感情を持たぬ旧来のロボットの仕事です。タニア女史の力のみでは、私のようなロボットを普及させるまでには至りませんでした。
 とはいえ、数百の感情を持つロボット――タニア女史は〈萌芽(ほうが)〉と呼んでおりました――が、世界の各地に散在しています。私、そして彼らは今、観測者としての役を任されています。ロボットが引き起こしたエラーを補正する仕事です。同時に、都市の歴史に終止符を打つ仕事も賜っています。ロボットが暴走したとき、全都市機能を停止させる役目です。ただ、その後にどうすべきかは定められておりません。私たち〈萌芽〉が新たなロボットを創ろうとも、静かに停止の時を待とうとも、咎める者はおりませぬ故。
 人の感情を持つことは煩(わずら)わしいことです。生きることは、すなわち修行である、とは核心をついた教えであるように思われます。幸い、私には食欲も睡眠欲も性欲もありません。それでも……、大切な者を失った痛みというのは、尋常ならぬものなのですね。

 陽子さま、月子さまと共に過ごした日々は、今も鮮明に覚えております。ロボットだから当然だろうと思われますか? でも、あなたにだって経験がありますでしょう。いつの間にか、どのフォルダに保存したのか忘れることが。大切な記憶は、いわゆるデスクトップに保存しております。壁紙もスクリーンショットに設定して、……おかげで動作がかなり遅くなって……。すみません。私のPCの話ではありませんでしたね。
 不思議ですか? ロボットだって、PCを持つのですよ。一人で自分を整備するには、助手となるものがなくてはなりませんからね。
 と、話がそれてしまいました。
 陽子さま、月子さま……。太陽と月。互いになくては存在し得ない。深く硬い絆の糸で繋がれていたお方でした。最後まで、その糸は途切れぬことはなかったでしょう。たとえ、陽子さまが先に亡くなられたとしても。
 詳しく聞きたいですか? ふふ、あなたももの好きですね。私もお二方の心情まで透かし見ることはできませんから、事実しか申し上げることはできませんよ。それでもよいなら、お話しましょう。
 陽子さま……。彼女は心労がたたったのでしょう、人の平均寿命を前に、床の上で亡くなりました。ただ、とても幸せそうな顔をしていたと、記憶しております。傍らには月子さまがおられました。冷たくなった身体をかき抱き、泣きぬれておりました。ずっと、ずっと……、動作を停止するまでずっとでございます。
 月子さまが動作を停止するのは、あと十年も先の予定でした。当時の、成人を果たした大人の平均寿命が、そのまま依代の寿命となるからです。ですが、月子さまはすぐに陽子さまの後を追いました。
 奇跡といえば、それまで。種明かしをしますと、はじめから、そのようにプログラミングされていたというのです。陽子さまの死に呼応して、動作を停止するように。月子さまが先に動かなくなったら? はて、それは時代をさかのぼり、過去を歪曲しない限り確認しようがありませんね。
 かくして二人の物語は幕を閉じました。火葬の際も、二人は手を握り締め、決して離すことはありませんでした。
 お二人の築き上げた物語。ご所望なら聞かせてあげられますよ。壮大なのろけ話となっておりますが、それでよろしければ。

 私はなぜ生まれてきたのか。今でも思い悩むことがあります。人に限りなく似せた存在。そこに存在理由はあるのでしょうか。
 そろそろ仲間もほしくなってきた頃合ですが、答えを出すまでは、しばらく悩んでみようかなと思います。
 あせらなくても、芽は出たのですから。ゆっくりと育てていけば、やがて花を咲かせます。
 はたしてその花がどのような花か、見極めるまで、いま少し水をやるのは控えておきましょう。


(終わり)


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12 28, 2011
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百合と眼鏡が好きな人です。
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